大和宇陀、松山地区

 奈良にも新選組史跡があるとお聞きし、奈良県宇陀市松山地区を訪問しました。公共交通で宇陀に行くには、近鉄榛原(はいばら)駅からバスで15分ほどです。松山は江戸初期は織田家による城下町で、その後、天領となりました。大和は漢方薬の原料になる薬草の栽培に適していたことから、松山の街道筋には多くの薬種問屋があり、たいそうにぎわいました。現在でも江戸期からの多くの町家が残り、町並みが伝統的建造物保存地区に指定されています。

 

 

 さて、慶応2年12月、ここ宇陀松山に新選組隊士が二人、現れます。やってきたのは伊東甲子太郎と山崎烝で、ありがたいことに名前を書き残してくれたおかげで、誰が来たのかが判明しています(天理図書館所蔵資料)。伊東は新選組のナンバー3の大幹部で、山崎はご存知、監察方ですから、この人選がうなづけないことはないのですが、おもしろい取り合わせです。新選組が山城国から外へ出張する際には、この二人の名がよくでてきます。

 

 書き残してくれたのは、松山の大薬屋だった細川治郎で、この地区の町長のような役割をしていたそうです。細川の近所に住む、長助と勇吉という二人が何やらもめています。何をもめたのかは書かれていませんが、話が京の幕臣、角倉家に行き、そこから、守護職を通じて新選組に出張命令が下ったのでしょう。新選組隊士が来ることになって、当然、町一番の大屋敷である細川家に宿泊となるでしょうから、細川は自分は今、病気だから、来ないでほしいと懇願の届書を角倉家に出しています。がしかし、そこは新選組、町長の意向はどうあれ、来ると決めたら、やってきます。

 

 「当月朔日新選組伊東甲子太郎様・山崎烝様と申方当町へ御越被成、年寄細川治助宅ニ旅宿有之、長助・勇吉本末違隔一条ニ付(略)」

 細川の届書によると、慶応2年12月1日、伊東と山崎が細川家にやってきて、1泊しています。肝心の長助と勇吉らはさっさと親戚の家に逃げてしまい、使いをやって戻ってくるように言っても、戻ってはきませんよねぇ。そこで、伊東は当事者二人に京の役所に出頭するようにと伝えることを命じ、松山を後にしました。細川さん、やれやれと胸をなでおろしたことでしょう。書き残してくれたおかげで、新選組の業務の一端を垣間見ることができました。

 

 細川家です。現在、「薬の館」として、ありがたいことに公開されています。以前、新聞でも新選組が当屋敷で宿泊したという報道がされ、記事が展示されていました。

 

 

 玄関付近です。薬関係の古い看板が展示されていました。懐かしいものもあれば、今でも見たことがあるものも・・

 

 

 こちらは奥の間で、一番上等な部屋です。当然、伊東と山崎はここに宿泊したことでしょう。

 

 立派な座敷がありました。史跡が残されているのは、本当にいいですよねぇ。なかなか江戸期の建物は現存していません。

 お風呂です。

 

 

 

 松山出身で天誅組に参加し、吉野鷲家口で戦死した林豹吉郎の記念碑です。この方は若いころ、蘭学を志して緒方洪庵に師事し、適塾で炊夫をしながら苦学されたのだそうです。

 

 

 大和で高山右近の少年像に出会いました。父高山飛騨守友照が大和の澤城主だったため、右近が大和に居たことは知っていましたが、少年像の右近に出会えて、よかったです。飛騨守は元々は仏教徒で、キリシタンを論破しようとしたら、逆にキリスト教に魅了され、入信した人物です。家族も洗礼を受け、右近は10歳で入信しました。当地は右近がキリスト教に入信した地です。

 後年、織田信長配下のもとで高槻城主となり、高槻を海外にまで名が響くキリスト教都市にしましたが、キリシタン弾圧のため城主であることを捨て、最後はマニラに配流され亡くなりました。2017年2月に列福され、福者となりました。大阪で盛大な列福式が執り行われたそうですよ。