池田屋事件の時、桂小五郎はどこへ

 

 京都市中、木屋町周辺の高瀬川沿いには、江戸時代を通じて、多くの藩邸がありました。現在も長州藩邸跡や土佐藩邸跡、彦根藩邸跡などの石碑が建立されています。江戸期の京都は古地図が多数現存しますので、どの場所にどの藩が屋敷を持っていたのかはわかります。高瀬川沿いにあった藩邸の中で、対馬藩邸跡の石碑が無く、昨年12月、歴史地理史学者の中村武生先生の主催する京都歴史地理同考会が「従是西、徳川時代対馬宗氏屋敷跡、附(つけたり)桂小五郎寓居跡」の石碑を建立されました。対馬藩は江戸初期から幕末まで、当地付近に藩邸をもっていました。場所は京都市中京区姉小路通木屋町西入ルです。高瀬川の綾小路橋の西詰になります。

 

 また、ここは池田屋事件の関連場所でもあります。対馬藩邸は三条小橋のたもと、池田屋とは地理的に近く、長州藩の桂小五郎は元治元年(1864)6月5日の夜、池田屋に行くはずが、対馬藩邸に居たので難を逃れたと、後に述懐しています。ただ、幕末史研究の先生方の意見では、長州藩邸留守居役乃美織江による6月5日夜の回想などをもとに、当夜に桂は池田屋に居ただろうと推定されています。大河ドラマ「花燃ゆ」でも、そのような設定になっていました。

 池田屋事件の夜、桂がすぐ近くの対馬藩邸に逃げ込んだ可能性はあります。幕末期、宋氏は長州毛利家と縁戚だったそうで、桂は対馬藩士の大島友之丞と親しく、対馬藩邸にもよく出入りしていました。この大島友之充は映画監督の大島渚氏のご先祖様だとか。

 

 石碑は見やすいように、木屋町の高瀬川沿いに建立されています。ただ、実際の対馬藩邸跡はもう少し西側の現在、京都ロイヤルホテルの辺りだとのことです。銘板に当時の絵図も添えられているので、確認することができます。

 

 高瀬川越しにみた石碑です。

 正面は対馬藩邸跡碑。

 側面に桂小五郎寓居跡とあります。

 

 

 

 池田屋跡まで歩いて5分とかかりません。