今福蒲生の戦い

 第45回はもりだくさんの内容だったので、2回に分けて書いてみようと思います。まずは、前半の今福鴫野の戦いについてです。ドラマの方では、ワンシーンで終わってしまい、残念でしたが、あの天下分け目の関ヶ原よりは、時間が多かったので、よしとしましょう。その分、「ブラタモリ」と「真田丸紀行」でしっかり放映していただき、よかったです。

 

 慶長19年(1614)11月26日、徳川方の上杉景勝軍と佐竹義宣軍がそれぞれ鴫野砦、今福砦を攻めました。鴫野村・今福村は大坂城の北東部にあります。現在でも、ここから旧今福堤を歩いて30分もあれば、大阪城に着きます。

 400年前は、鴫野村と今福村の間に巨大な旧大和川がありました。(1704年に改修して、現在、大和川は大阪市の南側、堺市との間を流れています。)

 旧大和川の南側が鴫野村で、北側が今福村・蒲生村になります。今回のドラマでは上杉景勝や直江兼続がよく登場するので、鴫野砦の方をドラマ化するかと思っていましたが、意外とドラマでは今福・蒲生の戦いをやってくれました。佐竹義宣の方は、名前だけの登場でしたね。佐竹氏は水戸の戦国大名だったのが、三成に恩があり、関ヶ原では徳川方に組みしませんでした。戦後、水戸から秋田に移され、幕末まで秋田藩主として残ることになります。いずれじっくり、大河ドラマで佐竹氏を取り上げてほしいものだと思います。前田や上杉、徳川、毛利、島津と並び、豊臣六大将の一人です。

 

 佐竹義宣は、家康の呼びかけに応じて、大坂の陣には参戦してきました。今福砦を攻めることを命じられ、一旦は押し込むものの、それを城から見ていた木村重成軍が駆けつけ、押し戻されてしまいます。今度は対岸の上杉軍に援軍を求めますが、旧大和川に阻まれて、なかなか合流できずに苦戦します。

何とか交流して、城側へ押し寄せようとしたのを城から見ていた秀頼が後藤又兵衛に木村軍の援軍に行くように命じ、後藤が船に乗って、城から参戦してきます。後藤が上杉軍に撃たれて、軽傷を負ったのは史実です。

この戦い、「ブラタモリ」でやっていたように、周りは低湿地帯だったので、戦さができたのは今福堤と呼ばれる土手ぐらいでしょう。タモリさんは自然堤防だと言っていましたっけ。結構な高低差がありますよ。その堤の上を豊臣方と徳川方が行ったり来たりしたのが、今福蒲生の戦いでした。死体を川に捨てたので、川が真っ赤に染まり、紅葉が流れているようだったと地元に伝わっています。

佐竹軍側は家老が戦死するなど、被害も多く、今福・鴫野の戦いは、冬の陣で最大の野戦だったと伝わります。この戦いで名を挙げたのが、木村重成です。初陣でしたが、見事に戦いました。今福砦は落ちていましましたが、その夜には、木村長門守が秀頼から褒美をもらったという資料がありますので、そう簡単に負けたわけではありません。

 

 鴫野の戦いの跡碑です。大正時代に当地が人々に忘れられ、工場の排煙にまみれてしまうのを憂えて、建てられました。明治初期まではのどかな田園だった当地も水運の好さと平らな土地があることから、中小工場が立ち並ぶようになり、繁華な場所となりました。JR鴫野駅から徒歩5分、駅の東側の城東小学校校庭内にあります。

 

 こちらはつい最近、400年を記念して、100年前の石碑と並んで建てられています。

 

 「真田丸紀行」にも登場した八剣神社です。城東小学校の裏側すぐにあります。境内には、大坂城築城時の残念石も残されています。

 

 今福蒲生の戦い跡碑です。「真田丸紀行」で大きく取り上げられました。地下鉄長堀鶴見緑地線の蒲生4丁目駅下車、徒歩5分ほど、南東方向へ歩いてください。城東診療所前です。

 

 側面には、後藤又兵衛と木村重成の奮戦の跡と刻ませていただきました。放映後、何人かの人が写真を撮りに来られていて、びっくりしました。こんなローカルな場所にようこそです。建立にご尽力いただいた皆様に、ひたすら感謝です。今まで、石碑を5基、建立させていただきましたが、大河ドラマで取り上げていただいたのは、初めてです。

 

 旧今福堤、現在は京橋付近より西側は野田海道、東側は古堤(こてい)街道と呼ばれています。結構、高低差がある堤です。街道沿いに古い民家が残されていたのですが、最近、どんどん建て替えられて、寂しい限りです。写真は旧蒲生村の南側付近です。

 こちらは木村・後藤軍と戦った佐竹義宣の本陣跡と伝わる若宮八幡宮です。

 

 立派な石碑があります。最近、改修されて、よりきれいになりました。

 

 嘉永7年建立の石の鳥居もあります。ペリー来航の翌年ですね。