1828年文政11年 | 十世杵屋六左衛門 |
この曲も化政文化の産物ですね。
二世瀬川如皐は1753年生まれ。三代目瀬川菊之丞の兄である。1779年二十三歳の時に河竹新七の門下となる。その後、1787年初代中村仲蔵に誘われて上方に行き修行する。翌年に江戸に戻る。1794年二代目瀬川如皐を襲名。三代目瀬川菊之丞付きの作家となる。また三代目中村歌右衛門や五代目松本幸四郎に作品を書き下ろしていた。
彼のライバルは鶴屋南北。鶴屋南北は金井三笑の弟子。三笑は如皐にも劇作法や処世法などを教えたと言われる。如皐は南北の二歳年下なのですが、当時の江戸歌舞伎を支えた人気の二人である。
如皐は変化舞踊を得意としていて、多くの作品を残している。
さて『供奴』は、文政十一年三月の江戸中村座において、二世中村芝翫(後の四世中村歌右衛門)が演じた、「拙筆力七以呂波(にじりがきななついろは)」という七変化の所作事の中の一つ。振り付けは、西川扇蔵・藤間大助・市山七十郎というメンバーだったそうです。
この演目、七変化ですから、ほかに六曲あるんですよね・・・
『傾城』・『ごみ太夫』『乙姫』『浦島』『瓢箪鯰』『石橋』と長唄・常磐津・富本の三流で演ぜられた。
このうち長唄は『供奴』『傾城』『浦島』『瓢箪鯰』です。
十世六左衛門の作曲したものの中に『石橋』がありますが、この演目の『石橋』とは違うようです。
そうそう、『石橋』の注釈に、ほかの『石橋』と区別するために『大石橋』あるいは『外記石橋』と呼ぶというのがありました。
ストーリーは非常に間抜けているもので
「だんなのお供で吉原に出かけた奴。しかし、吉原近くでだんなを見失ってしまう。こりゃ大変と、台提灯を持って吉原田圃に差し掛かり、更に急いで揚屋の門を行過ぎるその間の所作を演じる」というもので、非常に軽快で非常にコミカルな仕立てとなっています。
ところで、奴さんって何でしょうね。
奴というと、冷奴♪・・・これは食べ物で、奴さんとは関係ないでしょう。いえいえ、奴さんに関係あるんですよ。
奴さんには二通りあります。奴さんは、中間とも呼ばれます。武家の奉公人で一番下の奉公人を下男と呼びます。この人たちは武士ではありません。武士で一番下は足軽です。で、下男と足軽の中間に存在しているから“中間(ちゅうげん)”と呼ばれたのだそうです。この人たちは、基本的には武士ではないのですが、いざ戦争となると人手不足を補うために足軽になって戦場に出ちゃったりするのだそうです。さて、この中間にも二通りあってですね、常勤の奴さんと季節雇いの奴さんといるんですね。
季節雇いというのは、例えば参勤交代の時とか、何かの行事の時とか、常勤の奴さんだけでは足らない時に口入やを通して派遣してもらうのですね。
武家の台所。とにかく小さくても大きくても、その規模によって必要経費は掛かります。
常時、必要なだけの奴さんを雇うことなんて無理だったようです。
奴さんの給料は非常に安かったようです。当時、年収十両ないと一家を構えて家族を養う事はできなかったようなのですが、奴さんの年収は二両だったそうです。季節雇いの奴さんなんてもっと酷い。日給が米五合ですって。
まあ、とにかく給料が悪いのでその他で彼らを引きとめなくちゃいけない。という事で、中間屋敷で賭博所を開いても見て見ぬ振りとか、多少の悪さも見て見ぬ振りをしていたらしいです。
「あそこの大名家は待遇が悪いし、俺は辞めた」という感じで、彼らはすぐとらばーゆしちゃうのだそうです。
彼ら動揺、薄給の業界にいる私ですからよく分かります。これを読んだ時に「まるで看護師の業界みたい」と思っちゃいました。
ところで冷奴と奴さんの関係は奴さんたちの制服にあります。
季節労働者の人たちは、常にその大名家に方向するわけではない。今回はA家だったけれど、次回はB家という感じで奉公先が変わります。という事で、どこの家中でも使えるように、紋がただの四角だったんですね。この切り口に似ているからという事で「冷奴」なのだそうです。
この『供奴』にも賭博の事を唄っているなという箇所があります。
奴といえば賭博。とにかくガラの悪い人たちが多かったみたいです。
先にも言いましたが、奴さんたちは給料が安いので、とにかくお小遣い稼ぎをしたいのですね。
という事で、その藩の下屋敷の中間部屋に賭博所を開いて、賭け事をやって小遣いを稼ごうとしたりしていたんですね。胴元は場所代を稼げますしね。
賭博は江戸時代でも禁止の遊戯でした。でも、武家の屋敷はそういった事を取り締まる町奉行が介入する事ができなかったんですね。
また、下屋敷というのがミソ。表屋敷だとまずいのですが、下屋敷というのは別荘みたいなもので、藩主がそこにいる事は少ないし、管理が手薄なところなんですね。藩の方も奴さんが辞めちゃうと困ってしまうので、まあ大目に見てやろうという感じだったみたいです。
この『供奴』の歌詞に
「リュウチェーパマデンス」なんていう不思議な言葉がでてきます。あきらかに賭け事に関連している事場だなと分かりますが、意味がさっぱり分かりませんでした。
で、ネット検索したら、ありました!
今でも、身近にジャンケンなる遊びがありますが、その一種らしいです。
『本拳』あるいは中国から長崎に入った遊びなので『長崎本拳』とも言われるそうです。で、このジャンケン様の遊びで負けた人がお酒を飲むという罰ゲームが「拳酒」という遊びらしいです。
この曲の見所・聴き所はやはり「足拍子の合方」でしょうね。
踊り手・三味線・小鼓の掛け合いです。
この中村座の興業の途中で、タテ三味線の杵屋六左衛門が足を痛めてしまい欠勤をしたのだそうです。
代役に八世杵屋喜三郎が勤めました。
ところが、この足拍子で踊り手の芝翫が、「呼吸が合わないからあんたの三味線じゃダメだ」とクレームが入ったのですね。こりゃ大変だ!
看板の役者さんに臍を曲げられてしまったら大変です。座頭は六左衛門に駕籠を差し向け、無理を押して演奏してもらうことにした。
しかしですね。一度頼んだタテ三味線を「やっぱりいいです」とは言えないですよね。という事で、六左衛門のために別の山台を用意して座らせたのだそうです。
と、それを見たタテ小鼓の初代宝山衛門は「なんで三味線に別座があって、小鼓の別座が無いんだ」になったのですね。本当に、皆さん我がままですね。まあ、三味線・小鼓の掛け合いですからね・・・言われても仕方がないか・・・
という事で、小鼓にも別座を設けたのだそうです。はあ、座頭さん・・・お疲れ様です。
何だかんだ言っても役者が一番なんですがね、それでもそれぞれの職分の人たちはそれなりにプライドを持っていますから、なかなか調整が難しい。昔も今も変わらない。そして、邦楽の世界だけでなくどんな世界でも似たような話があなたの職場にもあるんじゃないですか。
歌詞の中にも「成駒屋」と中村芝翫屋号が含まれていますが、今は色々な方がこの曲を踊っています。
子どもの出し物としても人気の高い演目だそうです。