1856年 | 十世杵屋六左衛門 |
この曲ができた1856年(安政三年)は、日米修好通商条約の立役者であるタウゼント・ハリスが静岡県の下田に入港した年代。のちのち下田の芸者だったお吉をお妾とした人物ですね。
また、小学校の校庭の片隅で、薪を背負って読書する少年の像で有名な二宮尊徳が没した年でもあります。
長い間鎖国を貫いた江戸時代に黒船が到来し外国の文化が入ってきた。尊王攘夷を唱えるものもいれば、弱体化した幕府にしがみつき、徳川の時代を継続させようと働く人もいる。
二年後の安政五年から一年間は、安政の大獄という尊王攘夷を唱える人たちなどをものすごい勢いで弾圧するという物騒な事件が起きます。
きっとたぶん、安政という年代は徳川の時代が弱体化して暗く物騒で不安定な時代だったのではないでしょうか。
そんな時代でも、歌舞伎界は頑張っていたんですね。この時代、けっこう今に残る素晴らしい長唄が作曲されています。
十世杵屋六左衛門は、九世杵屋六左衛門の次男。幼名が吉之丞。その後杵屋三郎助を名乗り、1830年(天保元年)に杵屋六左衛門を襲名する。
『石橋』『外記猿』『傀儡師』といった外記節復興を目論んだ曲を残している。
外記節とは、江戸古浄瑠璃の一派。薩摩浄雲の門流、薩摩外記直政によって始められ、貞享年間(1684~88)に広く愛された。歌舞伎(かぶき)に進出して荒事に多く用いられ、豪放な性格を有するが、50年ほどのうちに廃れてしまったもの。それを再び立て直そうと六左衛門は考えたようだ。
この『翁千歳三番叟』も『外記三番』と言われている。
さてこの曲は長唄の三番叟ものの中で一番格調が高い曲とされている。
もともと能の『翁』をもとにできている三番叟もの。この『翁千歳三番叟』の歌詞はほとんど能と同じなのだそうだ。
(能の『翁』を観たことがないので実際のところ分からないのですが・・・)
能の『翁』は、土着的芸能で催されているものを謡曲化したもの。ご祈祷色の強いもので神聖なるものと扱われている。
能の世界では、「翁」を演ずるものは別火というお清めをして臨むのだそうです。
穢れを忌んで穢れたものと炊事の火をともにしないという禊だそうです。別火の期間は妻であっても穢れものである女性に接してはならない。また、喪中のものも穢れたものなので接してはならないそうです。
当日、楽屋には「別火」と張り紙がされ、女人禁制となるそうです。
・・・そこまでするかの固苦しさ。
歌舞伎は、この固苦しさを和らげたいとして、三番叟にターゲットを変更するという工夫をしたそうです。
だから、どの曲も『○○三番叟』なのだそうです。
格式の高さといえば・・・能ほどではないけれど、色々ほかの長唄では見られない儀式的な事にお目に掛れる曲です。
例えば
普段、囃子方が白扇を持って舞台に出ることってないと思うのですが、この曲では小鼓方の方々は白扇を持って登場するらしい。
ネット検索したら、その昔、『翁千歳三番叟』は『切腹三番叟』と呼ばれていたらしい。失敗したら、その場で「すみません」と切腹しなきゃいけなかったのだそうです。で、脇差携帯で舞台に上がっていたそうな。と本当か嘘かみたいな記事を発見した。で、その脇差の名残が白扇なんですって。
※のちのち人から聞いた話では、その白扇をどちらに置くかよくもめるそうです。
戦闘態勢で脇に刀を置く場合は、すぐに刀を抜けるように左側に置きます。でも、普通は右に置きます。時代劇を見て観てください。右に置いています。あれは「あなたに敵意はない」という礼儀なのだそうです。
ですから、想像ですが・・・置くのは右だと思います。
次回は、なぜ翁の楽屋は女人禁制なのか調べたいと思います。お楽しみに♪