ーーーーお父さんが仕事するのも お母さんがご飯作ってくれるのも (SDGSなんで今はこういう言い方しないか)愛だと思います。


と、僕は教えられたのだが、そんなことを理解するのに何十年も費やした。僕だけだろうか、そんなこともわからんで生きている人間は。


 世界の平和は、家庭から始まると、マザーテレサは言ったとおもう。


 冒頭の、お父さんとお母さんの愛ということを、教えてくれたのは、誰か偉い先生などではない。高校の確か三年生のとき、新宮高校の同和部室で仲間らと何か話していたとき、そんなことを言った一年下の生徒がいたという、だけのことで、その言葉を僕はずっとおぼえているのだこの歳まで。実は、そのとき、会話の流れで僕には愛とか言うものがわからんからんと、言ったから、その人はそういうシンプルなことを、教えてくれた。シンプル過ぎて、こころに刺さって今に至る。愛がわからなかったという僕は、自分自身が生きづらかった少年であって、生きづらい中せきたてられるように受験にむかわされている、そのやらされ感に疲弊している子供であって、そんないやな世界に自分を生みなした親というものにどこか憎しみさえ抱いていたように思う。


その夏にこのひとたちとともに(それと生徒会のY田君やらH井君やらI本君やらS川君やら同じクラスのKさんやらみんなでわいわいと)、障害者と市民の集いという企画にボランティアで参加した。


  その次の年、その嫌な受験の頃をどうにかのりきったころ父の肺に癌が見つかり、半年の闘病で逝き、母一人の精神力でその後の今までを生きて僕らを育み、守った。どうやっていろんな金をはらうんだという現実の悩みをひとり抱えて。僕らは母に守られ、そして母を神が守った。神から母が守られた証拠なのか歳を重ねるごとに母の顔は笑顔が美しい人になっていった。父が亡くなって34年目にジョー神父にミサをしれみらったとき、神父さんは、ずっと神がいてくれたのだよと話してくれた。





  というわけで、愛はわからんと言った不満でいっぱいの少年が40年の時を経て、その時の僕は愛され過ぎていて愛がわからなかったという、魚がいつも水の中にいるので水を知らないとでもいうような、海の外の陸地にあげられたらその過酷のなかで生きられないというような、単なる物を知らない魚としての自分があっただけだと、わかる。そのために40年費やすのだ。母がもう旅だとうとしているいま。いろんな金をどうやって払うんだという現実の悩みを引き継いで、このバカを神に捧げ、祈る。願い事ではなく、このバカを生かした神へただ向くためにだけ。母は神に抱き止められるだろう。この愛がわからないといったほどのバカは、人間は神の愛という海の中に泳ぐ魚であるという、こどものころにならった教会の夏季学校での歌を思い出した。



ーーーー私たちは魚のよう

      神様の愛の中で泳ぐ