日本はとてつもなく明るい国です。
ラテン系な人間的な明るさという意味ではなく、夜の街が煌々と明るいのですね。
コンビニ、ガソリンスタンド、電飾看板にとどまらず、ふつうの家でも明るいものです。
はたして、その明るさは本当に必要なものなのでしょうか。
欧州などを見ると、夜の暗さや灯りの暗さを強く感じます。
日本は、便利さを追求するあまりに、不必要な明るさまで求めてしまっているように思われます。
明るいということに鈍感になっているといいましょうか。
かつて谷崎潤一郎は、日本の美を「陰影」で表現しました。
しかし、現代の暮らしからは、そのような美しい翳りが消えつつあります。
もちろん、美しい翳りといえども、不便さや危険をともなうほどの暗さにする必要はありません。
照明器具が発達し、光源の種類も豊富な今日では、明確な目的をもって選べば、どのような光と影の演出も可能です。
さて。
色を美しく見せることを「演色」といいます。
昔の「和」においては、自分たちの美意識にあわせて、巧みに色を美しく見せました。
暗さを有効な演色方法として使い、美しさを感じさせることに優れていたのです。
明るすぎると、光が反射しすぎて色彩を失わせます。
また、たくさんの色が饒舌になりすぎます。
そして、色が互いに衝突して、煩雑さを招きます。
最近の住宅では、白色の壁が増えていますね。
空間に色が少なくなっているようです。
これは演色を考えてというよりは、部屋を広く見せたり明るくするという利便性を目的としたものなのでしょうね。
本来は、白にも微妙な明るさや色味の段階があって、材質のテクスチャー(凹凸感)によって光の反射が変わり見え方が違ってきます。
照明方法や自然光の採り入れ方を工夫して必要以上に明るくさせず、光と影を演出しながら色彩を美しく見せるということもできます。
もっと光に関心を持ち、美しさを表現することを、便利さ以上に大切にしたいものです。
「和」の光は、賑やかよりは「静」を、明るさよりは「翳り」を重視するものです。
試みに、くつろぎの場では、もう少しだけ暗くしてみてはいかがでしょうか。
落ち着き感が出てくるのではないかと思います。
人類は、夜の闇でもってして「心」を発達させたともいわれています。
死の恐怖、想像力、芸術、宗教、ありとあらゆる人間の心の中身は、夜の世界からやってきました。
だからこそ、心の活動を活発にさせるためにも、ある程度の「翳り」が必要な時もあるのですね。
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