三陸国際芸術祭 八戸編。 | vivienne sato

三陸国際芸術祭 八戸編。
無事終了いたしました。。
鮫、市川、津軽、インドネシアと様々な地域からやってくる舞手とダンサーたち。
伝統芸能とアートとしてのダンスパフォーマンス。
そこで繰り広げられた時間や空間、そして肉体たちは、紛れもなく「現代性」であり「同時代性」を身に纏っていた。
生命体としての肉体の悪用であり、真の意味で肉体の全く正しい使用とも言える舞やダンス。
形式は異なれど、どちらの踊り手の肉体は現代に寄添い、生命感に溢れ生きているということ。
それは演者とそこにいる鑑賞者にとっても全く同じ。
我々は、現代と自身の肉体をどの様に受け止め振舞っていかなくてはならないのか。

舞やダンスを神事や神をはじめ見えないものと交信し捧げるという歴史的事実。
そしてその大義名分を越え、それ以前かそれ以降なのか、もしくは常に同時に起きているのか、演者も鑑賞者も個々の肉体に起こる喜怒哀楽を越えた名指すことのできない興奮という経験。

伝統芸能が由緒正しくその土地において自然発生するものだとすれば、現代アートや芸術は暫定的に、いまにも失われそうな本能を現代に呼び起こし繋ぎ止める脆弱な媒体なのかも知れない。
個々から派生した志向は、いつしかそれが生まれた原初の風景を見せ、再現し、接続するだろう。
しかし、対峙する伝統芸能が堅固で半永久的とも決して言うことはできまい。
どちらも危うく一瞬で壊れ消えてしまいそうなもので、しかしその舞やパフォーマンスの最中は唯一の「世界」そのものとなり、神に捧げるのではなく「神」そのものとなる。

メインポスターの写真家 田附勝氏の作品は市川神楽の19歳の舞手と93歳の長老。
神楽の教え手たちは口を揃えて、「子供の頃はただただ楽しかった」と。
19歳の青年と呼ぶには若すぎ、少年と呼ぶには遅い舞手は自分の人生に迷い、翻弄されている。。

彼は自身の私服であるカート・コバーンのTシャツを着ている。
そのことを如実に語っている。
今年のアカデミー賞はクイーン旋風が吹き荒れたが、現在ヨーロッパやアメリカの白人はロックミュージックを正面から演奏し難い。ロックを演奏する社会的な理由や精神はもはや持ち合わせていない。社会全体が双極性障害や鬱状態で複雑だ。簡単にはロックミュージックが出来ないのが現代である。
クイーン全盛というヨーロッパやアメリカが輝いていた時代を憧憬しているのが現代とも言える。。

 

 

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