『神々のたそがれ』飴屋法水さんとトークショウ | vivienne sato

『神々のたそがれ』
近代モデルニテの終焉をテーマにした作品。
ユートピア思想が根底にあるが、保険や担保による保証といった近代理想主義の挫折、綻びが生じ、諦念や挫折がありながらも進んでいかなくてはならい、生きていかなくてはならい、ベンヤミンのいうような近代(進歩)という強風に押し流される天使を描いているような内容。
ドン・ルマータは惑星アルカナルにおいては神として存在するが、もはや神とは現在では絶滅危惧種とも言える。


倦怠感や憂鬱は睡魔や夢を誘う。それは集団の夢や無意識、ルマータの外的なものは集団においては内的なものとなる。
マクドナルドやスターバックスが店舗を構える現在のモスクワに住みながら製作された(であろう)この驚愕すべき作品を、同時代に鑑賞するという興奮。ド ン・ルマータのアルカナルでの苦悩は、そのままゲルマン監督の映画という終焉に向かいつつある芸術形態への挑戦とも重なる。

先日までSNACで行われていた飴屋法水さんの舞台『コルバトントリ、』(原作:山下澄人)。
死者と生者も境界はなく、もはや、過去や現在や未来と呼ばれる時間の分類、現実や夢や経験といったものもあやふやになっているという現代、それは近代理想 主義はとうに終焉を迎え、諦念はあるものの、しかし一抹の希望や生きる上での本能を自分自身に問いかける、そんな作品(だと思った)。

ルネサンスを拒否し、文化人や学者を処刑するアルカナルにおいて、鑑賞者と同じ目線であるドン・ルマータは、祖母や地球での思い出を反芻し、夢見る。しか しアルカナルの住人たちは夢というものや、過去や未来といった時間の考えは持ち得ない。過去や死者に想いをめぐらすこと、近代という神話性や物語性が機能 しないと気付いてしまった時、物語を外部に捜し求め始めるというのが現在なのかもしれない。とくに3.11後の世界では、物語の語り直しや外部を巻き込ん での物語性を創造する傾向がある。それは「幽霊」や「亡霊」と呼ばれるようなものも含まれている。



ゲルマンは旧ソビエト連邦成立以降の社会を背景に実際の歴史的事実を描いてきた作家である。
奇しくもマルクスの『共産党宣言』では、「共産主義という幽霊が出る」という一節から始まる。
この映画は近代という時代の末期に再び姿をあらわす、亡霊の認証と否定の物語でもある。
「ミネルヴァのフクロウは黄昏時に飛ぶ」
この映画の象徴的な場面である。

ほかにもはや「エキストラ」とも呼べないほど存在感を放つ名もないアルカナルの住人たち。
アウグスト・ザンダーの写真を思わせる過去や生き様が折りたたまれているような身体性。
「佐村河内/新垣」問題。日本のハリウッド映画『6歳のボクが大人になるまで』と『博士と彼女のセオリー』における役者の身体性。仕草や佇まいといった演技ではない、その裂け目に現れる「なにものか」。

そして、動物堂というペットショップのオーナーでもあった飴屋さんは、ペットが理想的に生育しなかった場合。生き物ゆえの個体差や固有の生物では図鑑通り に発育しなかったり、ペットが不慮の事故で死んでしまう状態、これがまさにドン・ルマータというアルカナルを飼育していた管理人と重なるのではない か、、、と話は多岐に及びました。。。


神々 のたそがれ』と『テラスハウスクロージング・ドア』。アルカナルというテラスハウスに住む人々とルマータの物語とも読める。どちらも失望や諦念はあらかじ め決められており、「神」とは監督のこと。演じられた落胆や終焉は、いまだ「物語性」という神話の強度を表しているに過ぎない。


終了後、また中原氏とG街へ。。。
私は途中沈没。

イラストは、くるみ嬢が描いてくれたみんなの絵。一番左が私らしい。。。