春怒涛軍艦島の夢の果て
( はるどとう ぐんかんじまの ゆめのはて )


九州北部ツアーの二日目の午前中は、「軍艦島(ぐんかんじま)」と言われる島を訪れた。この島は、長崎港から船で18.5kmの距離に浮かび、長崎半島最南端から「軍艦」の形に見えることから、この名が付けらたそうだ。正式名は「端島(はしま)」。



この島は、もともと自然の岩礁だったが、1893年(明治26年)から1931年(昭和6年)まで、6次にわたる埋立工事の末、自然の岩礁から現在の半人工島の形になったとのこと。



最盛期の1960年には約5,300人が住み、人口密度は当時の東京都区部の9倍にも達した。島内には小中学校や病院、映画館やパチンコホールなどの娯楽施設も完備されており、生活を全て島内で賄うことができた。



しかし、主要エネルギーが石炭から石油へと移行したことにより1974年に操業終了。閉山時に暮らしていた2,200人の人々は島を去り、今日に至るまで無人島となっている。



尚、2001年、それまでの所有者であった三菱マテリアル株式会社(元三菱鉱業)から正式に高島町へ譲渡され、2005年に同町が長崎市に編入されたため、現在は長崎市の所有となっている。


 

また、2015年には『明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業』として、福岡県、山口県などの23施設とともに世界遺産に登録され、再び脚光を浴びるようになった。



登録にあたり、第二次世界大戦中、朝鮮人に対する強制連行や強制労働があったという問題提起が韓国人などより出されたが、当時の住民の証言により完全に否定された。



現在は、国内最古といわれる高層RC造(鉄筋コンクリート)アパートのビル群などが残されており、そのほとんどが崩れかけている。かつては、学校、保育所、病院、商店、遊興施設なども整備されていたそうだ。



前書きがかなり長くなったが、本日の掲句は、「軍艦島」に上陸し、最盛期の賑わいも想像しながら詠んだ句である。句の形式は、松尾芭蕉の以下の句を倣ったものである。
 

夏草や兵どもが夢の跡

掲句では「春怒涛(はるどとう)」が春の季語。「春怒涛」とは、春の荒波のこと。島には荒波が時々押し寄せ、上陸できないことがあるそうだ。


つづく