前奏
招詞 ローマの信徒への手紙 8章 18〜21節
詩 編 歌 65編5節
神は、海の響き 波のひびき
開 会 祈祷
主 の 祈り(週報裏面)
十戒・祈祷(週報裏面)
子ども説教
スコットランド教会新カテキズム
「信仰の規準:みことばと使徒信条」
こどもさんびか
しゅにしたがうことは[改 119(2,3 節)]
牧 会 祈祷
讃 美 歌 86番
聖書
マタイによる福音書5章3〜7節
説教
「主にあって憐れみ深い人」
石本耕一
讃美歌 312番
みことばの交読文 詩編 86編 1〜4節
感謝のささげものと執り成しの祈祷
頌 栄 544番
祝祷
報告

聖書📙
マタイによる福音書5章3〜7節

2024年8月25日

主日公同礼拝説教 聖書箇所

マタイによる福音書5章3~7節

 

3 「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。

4 悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。

5 柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。

6 義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。

7 憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。


(Mynote)🖋
二〇二四年八月二五日(日曜日)、今日も兄弟姉妹共に礼拝を守れる事を神様に感謝する。
(子供メッセージ)
『スコットランド教会新カテキズム』
「私達の信仰の規準(大前提)は何ですか。」
「神様の御言葉です。その要約は、使徒信条と呼ばれる、信仰の箇条です。」
イエス様は十字架の上でご自分を(全ての人の罪の贖いの為に)捧げられた。更に弟子達を始め、全ての人々に初めから永劫に至るまでこう言われる。
「私は天の父より、天と地の全てのものを収める権威を与えられて居る。だからあなた方も出て行って、全ての人々を私に従う者とする様に訓練しなさい」。
父なる神様と、子なるイエス様(子である神様)と、聖霊(の神様)の三つが一つである事を踏まえ、その一つの真実に於いて洗礼を授けなさい。
そしてイエス様が弟子達に示した信仰に依る決まり事を、全ての人に守る様に勧め、あなた方もそう在りなさい。
「私は世の終わり迄、いつもあなた方と共に居ます」
とイエス様は教えて下さった。
どんな事があっても全ての人は、イエス様を信じ、信仰に救われる事が大事にある。イエス様こそが唯一の、この地上に於ける本当の救い主である。
(公同礼拝)
『マタイによる福音書』(第五章三〜七節)
本日のメッセージ箇所は七節の、
「憐み深い人達は、幸いである。彼らは憐みを受けるであろう」である。
この「憐み」と言うのは、人から受ける憐みそのものを指さない。神様から受ける憐みを指す。
この箇所は「山上の垂訓」が語られ、イエス様が全ての人達を励まし、慰め、神様の変わらぬ愛の在り方をそのまま教えた。
「情けは人の為ならず」という言葉があるが、これは人の間で言われる事に在り、神様から人が受ける憐みではない。全ての人は、神様から一方的に憐みを受けねば、初めから救われない存在にある。その本来・生来の人(罪人)の在り方を先に踏まえる必要がある。
「なぜ初めから人が罪人だったのか!?」
とその不条理に見える事柄に豪語を以て反論する者もあろう。人という存在が、初めから罪を持つ存在だったのである。だから人が幾ら「初めから罪を拭い去って居れば…」と文句を言っても、人=罪人である為、罪とは初めからワンセットで生まれるしか無かった(のではなかろうか)。そして大事は、神様がその罪人の世界を続けられた、と言う事である。なぜ続けられたのか?この点に注目する必要があろう。
神様は、そのどうしようもない罪人である全ての人々を、この地上に置いて愛された。そして、その罪から救う信仰の人生が芽生える事を良しとされ、ノアの時もロトの時も人の世界を滅ぼさず、現代にまで至る。人の世が続けられて居る理由は、クリスチャンの心から見て、その為ではなかろうかと思うのは合理に在る。
その罪人である全ての人を罪から救う為、神様が地上に遣わしたのがイエス様である。イエス様は人の間で唯一の救い主としてお生まれになり、罪が全く無い存在ながら全ての罪人を救い得る権威が与えられ、その永遠の約束があの十字架の上で成就し、今日に至るのである。
罪は、人間の側に問題があり、その問題により生まれた。イエス様が為された数々の奇跡を見てさえ、そのキリストの真実を信じなかった者達である。ただ人は自分の創り主である神様に屈服し、遜る上で罪が許される様に祈り求め、信仰生活に歩まされる事が大事になる。この「人の罪が清められ、罪人が信仰に依り救われる事」は、天に居られる神様の栄光を現す事になろう。この点でも人にとっての信仰生活は大事に在り、この人の在り方こそが神様が求められた人(人の世界)の在り方にあろう。そう信じる。
弟子達にしても、当時の多くの人々にしても、スムーズに信仰の道を歩んだ(歩まされた)訳ではない。だから弟子達は絶えず信仰に於いて分からない事をイエス様に尋ね、弟子でない人々もイエス様の傍に来て教えを乞い、又それ以上に多くの人々がイエス様に救われたいと集まった。こう見ると当時も現代も変わって居らず、人の本質が全く変わらないのと同じ様にして、信仰に於いて、イエス様に救いを求め続ける人の姿が在る。
神様がイエス様を通して全ての人に与えた救いとは、何の見返りも求めない、無償の救いに在る。全ての罪人を信仰に於いて救い給うものであり、全ての人はただでその救いを受けて居る。イエス様が十字架に付けられ、全ての人の罪を贖い(清め)救われた時点て、既に全ての人は信仰に歩み罪を悔い改め、神様に救われる土台を得て居る。
芥川龍之介の著書に『蜘蛛の糸』がある。その作中で極悪人・カンダタに極楽から一本の糸が垂らされ、地獄から極楽へ救われる好機が与えられた。しかしカンダタを始め人のエゴがその糸を断ち切り、救われる者は無かった。このカンダタが救われる機会を得た理由は、生前に一つだけ良い事をして居たからである。一つだけ憐みによる言動を働いたから。
しかしキリストに依る救いは、その「一つの善行」さえ理由にせず、無償(ただ)で一方的にその救いが全ての罪人に与えられる。この点が大きく違う。
全ての人は罪人であり、例えば聖書に在る十戒の内の決まり事を、ただ一つも守り尽す事が出来ない。完璧に守る事が出来ないと言う事であり、又例えば「全ての人に憐みを以て接せよ」と教えたイエス様の言葉をさえ、守る事は出来ないであろう。自分を攻撃する者に対しても憐みを持ち、その者を愛し尽す事がどれだけの人に出来るだろうか。イエス様の真似をする事は出来ても、イエス様が為された通りにする事は誰にも出来ない。だからこそ、全ての人(罪人)は、神様(イエス様)が教えた御言葉の一つ一つを、常に守り続けようと努力する心が大事になるのだ。この心は信仰から成り、ノンクリスチャンの内にもその心は細胞レベルで宿って居る。皆、神様から創られ、命を吹き込まれ、ここに兄弟姉妹として居るのだから。そして全ての人(初めから罪人)は、初めから神様からその罪が許されて居り(その許される土台がイエス様を通して与えられて居り)、全ての人が救われる事が出来るのである。神様の御計画に依り救われる者と救われない者とが捌かれる場面を知り、人智により「救われない者がそれでも居るんじゃないか!」と悟るやも知れないけれど、人を救い給うは神様であり、その肯否は人の及ぶ処ではない。ただ全ての人は、信仰に歩まされる事を望み、その為に唯一誠のキリストなる神様(イエス様)に祈り願い、他の人でなく、自分の罪が許され救われる事を祈り求めねば成らない。
人の世の限り有る平安の内から、神様の永遠の平安の内へと兄弟姉妹共に救われる様に。これは全ての人の人生を賄う救いと成る。

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