京都は静か、大阪には活気がある。京都の静かな雰囲気は、時に退屈を生み、それが延長されて孤独を生む。大阪の活気は隣人との間を縮めてくれて、人の近さを感じさせ、孤独をあまり感じさせない。しかし、ふとした時に人の壁を見る事があり、活気が違う方向へ流れて行けば、土足で人の心に踏み込む恐怖のような嫌悪を知り、いっとき大阪人から離れる事もある。また京都は知的で大阪は愚鈍に在り(こう言うが大阪の方が仕事においては遥かにレベルが高い。京都は個人レベルは高いが協働に成ると駄目である)、愚鈍と言うより本能の勢いが目覚ましく、深い話が出来ない、もっとこう考えてくれれば良いのにそれをしてくれない、考えるのをすぐに諦める、そういった夢を語り合える・合えないと言う風のような寂しさを、大阪の方に感じる事もあった。
しかしそれでも、俺には両親と共に育った大阪の街、子供の頃に覚えたロマンスの街、大阪で知り合った友人や知人、教会の人達、従兄妹との暖かい記憶が在る為、大阪全体を嫌いには成らないのである。それでもやはり大阪の街にぬくもりを見て、いつでも自分を許容してくれる暖かさを知り、まるで自分のパラダイスが在るように錯覚させられ、この日本中の場所において、最も寄り付きたい場所に在る。出来れば今でも父母と共にそこで生活し、友達や知人を見付け、教会の人達とも何の蟠りも隔たりも無く一緒に過ごせて、家庭を持ち、子供を持ち、円満に暮らしたいと願うのである。
信仰生活、それが確立され始めた土台も、確かに大阪に在ったのだ。大阪に始まり、京都でそれを象って行き、今このように言う自分の在り方に辿るのである。