前奏
招詞 詩編89編6〜9節
詩 編 歌 65編 8節
荒れ野にも油のしたたりあり
開 会 祈祷
主 の 祈り(週報裏面)
十戒・祈祷(週報裏面)
子ども説教
子どもと親のカテキズム問 97
「アーメン」
こどもさんびか
きょうもわたしを[改7(全1節)]
牧 会 祈祷
讃美歌 191番
聖書
使徒言行録20章1〜6節
エズラ記6章12〜22節
説教
「真理を尽くして
〜主の救いの御業を覚えつつ」
宮武輝彦
祈祷
讃美歌 261番
みことばの交読文 詩編 118編 22〜26 節
感謝のささげものと執り成しの祈祷
頌 栄 544番
祝 祷
報告
聖書📙
使徒言行録20章1〜6節
エズラ記6章12〜22節
讃美歌〜♫🌲🔔
(週報裏面)
2024年7月21日 礼拝説教 中心聖句
そして、この地方を巡り歩き、言葉を尽くして人々を励ましながら、ギリシアに来て、そこで三ヶ月を過ごした。
使徒言行録20章2,3節
捕囚の地から帰って来たイスラエルの人々も、イスラエルの神なる主を尋ね求めて、その地の諸民族の汚れを離れて来た人々も皆、過越のいけにえにあずかった。
エズラ記6章21節
はじめに
わたしたちの伝道は、どんな時にも、神の言葉によることを今日も共に学びたい。
1
「(さて、)この騒動が収まった後」とは、エフェソでの騒動。町の書記官による事態は収拾し、パウロも難を逃れた。また、何よりも、エフェソの教会が守られた。それは、神の守りの中で町の書記官も用いられた。神の支配は、教会のみならず、生活の全領域に及ぶ。その騒動が収まり、間もなく「パウロは弟子たちを呼び集めて励まし、別れを告げてからマケドニア州へと出発した」。パウロは、マケドニア州とアカイア州を通ってエルサレムに行き、ローマに向かうことを、霊の中で思い定めていた(19章21節)。伝道旅行と教会の主は、聖霊なる神、キリスト。先に学んだように、パウロの目的は、献金によりエルサレムの貧しい者たちを助け、ユダヤ人と異邦人の一致を証しすること。パウロは「異邦人のためにキリスト・イエスに仕える者となり、神の福音のために祭司の役を務め」た。それは、「異邦人が、聖霊によって聖なるものとされ、神に喜ばれる供え物となるため」(ローマ15章16節)。全生活において命の主を神とする聖なる生活こそ、ユダヤ人も異邦人も、福音の力によって救われる目的。
2
「そして、この地方を巡り歩き」とは、エフェソからトロアスをとってマケドニア州を通過したこと。その間「言葉を尽くして(多くの言葉で)人々を励ました」。マケドニア州にあるテサロニケの教会に宛てた手紙では、その模範的な生活を神に感謝して伝えています。「なぜなら、わたしたちから神の言葉を聞いたとき、あなたがたは、それを人の言葉としてではなく、神の言葉として受け入れたから」「事実、それは神の言葉であり、また、信じているあなたがたの中に現に働いている」(テサロニケ一2章13節)と。一方、「眠りについた人たちについて、希望を持たないほかの人々のように嘆き悲しまないように」励まし、「神が死者の中から復活させた方、来るべき怒りからわたしたちを救ってくださるイエス」(同1章10節)、この「主御自身が天から降って来られ」る、復活の日を告げ、「わたしたちはいつまでも主と共にいる」との「言葉(神の約束)によって励まし合いなさい」(同4章16~18節)と勧告するのです。「(アカイア州の)ギリシャに来て、そこで三ヶ月を過ごした」。
3
「パウロは、シリア州に向かって船出しようとしていたとき」とは、パウロがエルサレムへ急いだことを伺わせる。しかし、この時、「彼に対するユダヤ人の陰謀(待ち伏せ)があったので、マケドニア州を通って帰ることにした」。多分、船内でパウロを殺害する計画が企てられていた。「同行した者は、ピロの子でベレア出身のソパトロ、テサロニケのアリスタルコとセクンド、デルベのガイオ、テモテ、それにアジア州出身のティキコとトロフィモであった」。「この人たちは、先に出発して(アジア州の)トロアスでわたしたちを待っていた」。「わたしたち」と、使徒言行録を書いたルカ自身が旅を証しする。「わたしたちは、除酵祭の後フィリピから船出し、五日でトロアスに来て彼らと落ち合い、七日間そこに滞在した」。パウロはキリストにおいて除酵祭が廃止しされたことを知りながらも、それを尊重する。
おわりに
神殿再建の時、捕囚の地から帰って来たイスラエルの人々も、イスラエルの神なる主を求めて、その地の諸民族の汚れを離れて来た人々も皆、過越のいけにえにあずかり、七日間にわたって、喜び祝いつつ除酵祭を行った。主の言葉を守り行う励ましがここにもある。今日、わたしたちの伝道も、主の言葉を守り行うもの。その良き報いは、主に従う義務と従順。
(子供メッセージ)
『子供と親のカテキズム 問九七』
「『アァメン』とは、どう言う意味ですか。」
「『アァメン』とは、『真実です』と言う意味です。私達は、
イエス様がこの地に生まれる前の事、
しかしその律法はイエス様が来られた事により改変される様に刷新
(公同礼拝)
『使徒行伝』(第二〇章一〜六節)
『エズラ記』(第六章一二〜二二節)
先ず『エズラ記』
『使徒行伝』では、イエス様が神様からこの地上(人々の内)
しかし当然全ての人は人間(罪人)に在る為、
全ては、神様の御計画の内に在った事である。この点がこの『
人はこの日常に於いて、神様の御計画より、
全ての人は、何処から生まれたか?
人は自分で生きて居ない。身近な例では、
この命の原点、即ち信仰の原点に立ち戻る事が必要である。
この『使徒行伝』の箇所でも『エズラ記』の箇所でも、
パウロはわざわざマケドニヤに引き返し、
大事は、いつどの時・どの場所でも、
聖書にその道を教える原点が記され、
【最寄りの教会検索用】☕️
(お暇な時にぜひどうぞ☕️😊)