前奏

招詞 詩編89編6〜9節

詩 編 歌 65編 7節

水は畑に満ちて うね整い 

開 会 祈祷

主 の 祈り(週報裏面) 

十戒・祈祷(週報裏面)

子ども説教

子どもと親のカテキズム問 96 

「神さまの栄光をたたえて」

こどもさんびか

ひかりのこになるため[改 121(2,3 節)] 

牧 会 祈祷

讃 美 歌 15番

聖書

使徒言行録19章35〜40節

エステル記 9 章13〜19 節

説教 

「騒動の収拾

〜官憲の役割を認めつつ」

宮武輝彦

祈祷

讃美歌 365番 

みことばの交読文 ローマ 13 章 8~10 節

感謝のささげものと執り成しの祈祷

頌 栄 544番 

祝 祷

報告


聖書📙

使徒言行録19章35〜40節

エステル記 9 章13〜19 節


讃美歌〜♪🌲🔔

https://m.youtube.com/watch?v=9jh43RT1-R0&pp=ygUR6K6DIOe-jiDmrYwgMTXnlao%3D


(週報裏面)


2024714日 礼拝説教 中心聖句


「エフェソの諸君、エフェソの町が、偉大なアルテミスの神殿と天から降って来た御神体との守り役であることを、知らない者はないのだ。」

使徒言行録1935


 王国の諸州にいる他のユダヤ人も集合して自分たちの命を守り、敵をなくして安らぎを得、仇敵七万五千人を殺した。しかし、持ち物には手をつけなかった。

エステル記916


はじめに

「神の国(キリストの王国)」は、騒動の中でも進展していく。その顛末を知る。

「そこで、町の書記官が群衆をなだめて(抑制し、鎮めて)」とは、ユダヤ人アレクサンドロが弁明しようとしたとき(ユダヤ人は「その道」との差別化をはかる)、「エフェソ人のアルテミスは偉い方」との二時間ほども叫びつつけた(エフェソ人にとってユダヤ教もキリスト教も同じ偶像への反対者)時、「町の書記官」は、事態の沈静化を計った。「エフェソの諸君、エフェソの町が、偉大なアルテミスの神殿と天から降って来た御神体との守り役であることを、知らない者はないのだ」と。「御神体」は、美しい彫像、もしくは整った形の隕石をもって、天から降ったものと信じた。「守り役」は、神々の神殿を管理する栄誉と威厳のある仕事。エフェソの町全体がそのような名誉ある町であることを誇った。「これを否定することはできないのだから、静かにしなさい。決して無謀なことをしてはならない」と諌めた。「無謀なこと」とは、高いところから落ちるような軽率なこと。先に、デメテリオが「女神の御威光さえも引き下ろされる」と言ったことに呼応する。「諸君がここへ連れて来た者(ガイオとアリスタルコ)たちは、神殿強盗(後、冒涜罪)でも、われわれの女神を非難する者でもない」。パウロたちは、偶像崇拝を認めながらも、むしろ、深い同情と憐れみの中で「神の国」について教えた。それは、主イエス同様、罪人を神のもとに立ち帰らせる道。

「デメテリオと仲間の職人が、だれかを訴えたいのなら」とは、アルテミス神殿の経済問題を解決すつための法的な手段を指す。「決められた日に法廷は開かれるし、地方総督もいることだから、相手を訴え出なさい」と命じる。むしろ、デメテリオを訴えたものは、偶像を神とすることの罪悪をとがめる良心。それが裏返って、パウロの宗教を非難することになった。法的手段に訴えても、正当な証拠を出すことはできない。「それ以外のことで更に要求があるなら、正式な会議(エクレシア:招集された集まり)で解決してもらうべきである。」デメテリオたちの行動に、ある正当性を認めたとしても、ただの騒動では、事態の収拾を優先するのは当然であった。「町の書記官」は、正式の告訴の手段と場所を明らかにし、騒動を鎮めた。

そして、むしろ、「本日のこの事態に関して、我々は暴動の罪に問われるおそれがある。この無秩序な集会のことで、何一つ弁解する理由はないからだ」と伝えた。当時、共和政ローマの支配下で、アジア州の首府エフェソは自由都市として、独自の元老院をもつような特権を与えられていた。書記官はその会議で選出され任務を果たした。また、「1世紀末の有名な修辞学者ディオン・クリュソストモスは、言論の自由を乱用する者はその権利を取り上げられると、アジア州の別の市民に警告した」(IVP聖書背景注解)と言う。「こう言って、書記官は集会を解散させた」。少数のユダヤ人に与えられた特別な免除等への不満が騒動の背景にあった。

おわりに

ペルシャ帝国においてユダヤ人撲滅の危機の中、ペルシャ帝国の王妃であったユダヤ人エステルは、勇気ある行動によってその危機を救う。ユダヤ人の敵への対抗(復讐か、正当防衛か、不明)が起こり、撲滅を企てた者の息子十人他、三百人、また、仇敵七万五千人を殺した。この時、「持ち物には手をつけなかった」ことは、武器を持つ者のみを殺し、女子や幼い者たちに生活の糧を残したことを証しする。信教の自由と言論の自由等、憲法の保障という「安心」の中で、信仰の戦いは何に向かうのか。主の召命による教会(集会)を求めたい。


(Mynote)🖋

二〇二四年七月一四日(日曜日)、今日も兄弟姉妹共に礼拝を守れる事を神様に感謝する。
(子供メッセージ)
『子供と親のカテキズム 問九六』
「『国と力と栄えとは、限りなく、汝のものなればなり』という結びの言葉は、何を意味していますか。」
「祈り確かに聞かれる理由は、いつも良いものだけを与えて下さる恵みの神様にこそあります。ですから、神様の子供である私達は、喜びと感謝を以て神様の栄光を褒め称えるのです。」
天の国へ着く者の信仰はからしだねに似て居る。どんなに小さな信仰でも、それが神様に育てられたら想像以上に大きく成長する。天の国では、この世で最も小さな者が偉い、と神様はイエス様を通して全ての人に教えた。その小さな者とは、信仰に於いて、人に仕える者を指す。イエス様が全ての人を先導しながらも、全ての人の罪を贖われた事に同じく、全ての人の後ろを歩かれ、全ての人を守られて居る様に。
(公同礼拝)
『使徒行伝』(第一九章三五〜四〇節)
『エステル記』(第九章一三〜一九節)
この『使徒行伝』の箇所では、先週からずっと引き続き、パウロと共の伝道と、その地方であるエペソの人達とのエピソードが記される。
パウロ達はエペソ人から訴えられ、その地方で信仰されて居たアルテミスの神(の教え)に反する者達だとされ、劇場にパウロの共は引き連れられ、そこで裁判染みた騒ぎにまでなって居た。詰り人同士の論争に在り、その論争は暴動に発展しそうな勢いで、暴力により死傷者すら出そうな状況になって居た。
そこでその市の書記官(その地方の責任者)が人々の前に出て、事を収めた。
「エペソの諸君、エペソ市が大女神アルテミスと、天下った御神体との守護役である事を知らない者が、一人でも居るだろうか。これは否定の出来ない事実であるから、諸君は宜しく静かにして居るべきで、乱暴な行動は、一切してはならない。諸君はこの人達をこのに引っ張って来たが、彼等は宮を荒す者でも、我々の女神をそしる者でもない。だから、もしデメテリオなりその職人仲間なりが、誰かに対して訴え事があるなら、裁判の日はあるし、総督も居るのだから、それぞれ訴え出るが良い。しかし、何かもっと要求したい事があれば、それは正式の議会で解決して貰うべきだ。今日の時間に就いては、この騒ぎを弁護出来る様な理由が全く無いのだから、我々は治安を乱す罪に問われる恐れがある」
と語り聞かせ、群衆を解散させたのである。
当時も現在と(宗教による国際間に於いて)ほぼ同じく、ユダヤ人達は周りの種族の人々から良く思われて居なかった。ユダヤ人達は当時、ローマに非常に手厚く持てなされ、教皇の権威にも見られる様に、ユダヤ人が持つ力・結束力等に対し、それなりの恐れを抱く程に当たり障り無い対応をして居た。
これを見て、当然周りの種族の人達からは「なんでユダヤ人達だけがこんなに優遇されるのか?」と怒りと嫉妬を覚えさせられ、そのユダヤ人達を撲滅させようとする勢力が生まれてもおかしくなかった。そしてその通りの勢力が生まれ、ユダヤ人達は数多くの種族から迫害され、蹂躙された上、人としての権利すら剥奪された者達も多かった。ナチスドイツによる「ユダヤ人撲滅(ホロコースト)」もこの流れを承けて居り、この他にも様々な場所でユダヤ人は迫害されて来た。
これは特に宗教上での争いが大きく、それを基にして邪教を信じる者・その邪教を利用して儲けようとする者・純粋にその邪教を信じる者達は、唯一誠のキリストを信じるユダヤ人達を宗教の点からもそしり、迫害する様になり、相乗効果を齎す形で、ユダヤ人達は特に身近に在る周りの種族から憎まれて居た。
イエス様を信じない者達もその邪教を信じる者の内に(当然)多く(全ての人達として良い)、イエス様を十字架に付けたのと同様に、他のユダヤ人達にもその怒りと憎しみを投げ付けた。
しかしそれと同時にキリストに改心する者達も(その邪教を信じて来た者達の中に)多く、全ての人々の内にその意味で混沌が起きるのも無理は無い。詰りこの劇場内で起きて居た騒動も、その様な混沌とした個人々の主張や正義・宗教観が入り混じっての騒動・暴動になって居た為、
「或る者はこの事を、他の者はあの事を、怒鳴り続けて居たので、大多数の者は、何の為に集まったのかも、解らないで居た」
と言うあの状況・内実に成って居たのか。
パウロは、他の邪教を信じる者達を、一方的に否定などしなかった。寧ろそんな彼等を受容した上、自分達が信じるキリストの真実をただ伝えただけで、その伝道によりキリストに改心する者達が居たかも知れない。その上で、そのパウロ達をデメテリオ達が非難したなら、デメテリオ達は一体何を理由に訴えるのか?この点が疑問になる。
即ち、これ迄に学んだ通り、デメテリオ達(像職人)にとってはアルテミスの女神やそれに準ずるグッズ等が造れない(需要が無くなる上で)となれば自分達の仕事が無くなり、その仕事による利益が無くなるのを恐れた事、その自分達の仕事を奪おうとするパウロ達を憎んだ事に起因する。デメテリオ本人と、そのデメテリオの言葉に従いパウロ達に怒りの刃(やいば)を向けた彼等自身の姿勢とその内実が、既にその事を証明して居た。
書記官はその地方の責任者である事から、その暴動に正義が無ければ、上の者に暴動の理由を報告するとき責任を問われ、処罰されるかも知れない。これを恐れて書記官は皆を静め、書記官に諭された群衆も(多少目覚めて感じで)保身を考え、それ以上の騒ぎを起こさなかった。誰でもこの様な保身は考えるが、大事は自分達の行動理念、何故そんな感情と正義を掲げてパウロ達を訴えようとして居たのか?その核心を問う事にある。
上記の様に、彼等は「何の為に集まったのかも、解らないで居た」。こうした彼等がその群衆の大多数に在れば、パウロ達を訴える為に集まったその理由も、中身が無い事になる。詰り周りの勢いに合わせ、自分達もそこからはみ出ない様に攻撃して居た・非難して居た、訳も分からず怒りの感情を自分で自分に煽り続けて居た、と言う状況にもなろう。これは現代でも非常に多い事である。胸ができればルールができる。でもそのルールがどの様にして出来たのか、分からない人が多い事もある。得てしてそのルールはその群れの中に潜む強欲な者達、権力者により作られる事が多く、そのルールの目的は何らかの利益を得る為にある、この事も現代に同じく多く見られる事がある。
安心が、棄教させる事がある。それまで自分達の信仰をしっかり守って来たのに、その地方が安全になり安心すると、それまで守り続けて来たその信仰を棄て、無宗教になる者達が多いのである。苦しい時の神頼みという言葉があり、これは人の或る意味真理を突いており、苦しさが離れたらまた自分の我儘が出て、信仰を蔑ろにし、その時自分に必要じゃないからと棄ててしまう。それがマンネリ化して、本当に信仰から離れ続ける生活が長引く事がある。
エペソの人々も或る程度平和だったのか?その平和が安心を呼び、その安心が心に他を見る余裕を持たせ、本来の信仰から遠く離れ、やがてそれがマンネリ化して、パウロ達が伝えるキリストをこれ程までに蹂躙・迫害する偽の信仰を持ってしまった?…これも確かに一理あろうか。
大事は、唯一誠の神様に従い、誠の信仰に歩まされる事。その信仰を認める目と心の力(信仰の力)を神様に育てて頂き、謝った邪教の道へ反れない事、その事を平和な時も争いの時も、常に心に留める事に在る。 


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