前奏

招詞 イザヤ書40章1~4節

詩 編 歌 65編 5節

神は、海の響き 波のひびき

開 会 祈祷

主 の 祈り(週報裏面) 

十戒・祈祷(週報裏面)

子ども説教

子どもと親のカテキズム問 94

「罪のゆるし」

こどもさんびか

いつくしみふかい[改 130(2,3節)] 

牧 会 祈祷

讃美歌 261番

聖書

使徒言行録19章21〜27節

ダニエル書7章1〜8節

説教 

「主の道のゆえに

〜騒動のもとにある悪しき勢力」

宮武輝彦

祈祷

讃美歌 520番

みことばの交読文

ヨハネの黙示録 21 章 3,4 節

感謝のささげものと執り成しの祈祷

頌 栄 543番

祝祷

報告


聖書📙

使徒言行録19章21〜27節

ダニエル書7章1〜8節


(口語訳聖書)


讃美歌〜♫🔔🌲


(週報裏面)


2024年6月30日 礼拝説教 中心聖句


テモテとエラストの二人をマケドニア州に送り出し、彼自身はしばらくアジア州にとどまっ ていた。そのころ、この道のことでただならぬ騒動が起こった。

使徒言行録19章22.23節


バビロンの王ベルシャツァルの治世元年のことである。ダニエルは、眠っているとき頭に幻 が浮かび、一つの夢を見た。

ダニエル書7章1節


はじめに

終わりの時代、何が事柄を支配しているのか。それを見極める眼差しを求めたい。

「このようなことがあった後」とは、エフェソにおいて、「神の国」の福音が宣べ伝えら ていく中で、主の言葉が、ユダヤ人にもギリシャ人にも聞く人々が広がっていったこと。ま た、神が、悪霊を明るみに出し、大勢の人たちが信仰に入り、主イエスの名をあがめ、悪行を 告白したこと、魔術を行っていた多くの者たちも、その書物を焼き捨てたことなどの後。「パ ウロは、マケドニア州とアカイア州を通りエルサレムに行こうと決心し」とは、「霊の中で定 められた」道(20章22節「霊に縛られて」)。エルサレムの貧しい兄弟たちに、各地で集めた 献金を届ける目的もあった(コリント一16章1-4節)。パウロは「人に従ってエフェソで野獣 と闘ったとしたら何の益があるか」(同15章32節)と問うたほどに、霊の戦いを経験した。こ こに、主の恵みによる物心両面(霊肉)の支えを見る。また、パウロは、「わたしはそこへ 行った後、ローマも見なくてはならない」と言った。それは、霊の賜物を分かち合い、信仰に よって励まし合い、福音を告げ知らせるため(ローマ1章11,12,15節)。パウロは、ローマに向 かって心を定めながら、「彼に仕えている二人の者、テモテとエラストを、マケドニア州に送 り出し、彼自身はしばらくアジア州に留まった。」。

「そのころ、この道について、ただならぬ騒動が起こった」。「この道」とは、敵対する者たちから、十字架の主イエスに従い、この主を証する者たちの教えを指す(9章2節,19章9 節)。エフェソの人びとの誇りは、アルテミス神殿と崇拝。同時に、世界から訪れた人々が宝石や品物を奉納する経済の中心地でもあった。時の政治と経済と宗教は、渾然一体となって、 社会を形成していた。まさしく「アジア州全体、全世界があがめるこの女神の御威光」が、多 くの人びとを席巻していた。「そのいきさきは次のとおり」「デメテリオという銀細工人が、 アルテミス神殿の模型を銀で作り、職人たちに多大な利益を得させていた」。小さな模型は、記念品やお守りとして作られ、デメテリオが、実際に模型を作る職人を集める仕事をしてい た。「彼は、この職人たちや同様の仕事をしている者たちを集めて言った。『諸君、ご存知のように、この仕事で我々は富を得ている。だが、諸君が見聞きしているとおり、エフェソのみならず、アジア州のほとんど全域で、このパウロが、手で生じたものは、神々ではない、と言って、大勢の人々を説得し、別の方に向かわせた。そして、我々の仕事に悪評が立つおそれがあるばかりか、偉大な女神アルテミスの聖域も冒涜される危険にされされており、アジア州と全世界があがめるその威厳の偉大さも取り下ろされそうとしている。』パウロならば、「手で作ったものが、神々(偶像)」と言う。デメテリオは、「手で生じたもの」といい、人の産物を強調し、それを宗教とすることが否定されたことを問題としている。しかし、パウロはそ のような対立よりも、神の真実を伝え続けた。アテネでは、「知られざる神(不明となった神、忘れられた神)」と刻まれた祭壇を契機に、天地の造り主なる神を伝えた(17章)。

おわりに

異教の地バビロンで、ダニエルは、帝国の衰退と変遷を予告する幻を見た。それは、偶像に仕える国の衰勢でもある。今日、世界の国々の衰勢においても、何を宗教としているかを問うことの中に、事の真実を知る道がある。主イエスを「わが神、主」とするなら、わたしたちの告白は、ただ、信仰と従順において、神と人に、真の愛を尽くすものでありたい。


(Mynote)🖋

二〇二四年六月三〇日(日曜日)、今日も兄弟姉妹共に礼拝を守れる事を神様に感謝する。
(子供メッセージ)
『子供と親のカテキズム 問九四』
「『我らに罪を犯す者を我らが赦す如く、我らの罪をも赦したまえ』では、何を祈り求めるのですか。」
「私達が、イエス様の十字架の恵みに依って罪が赦されて居る事をいつも思い起こし、他の人達の罪をも赦す事が出来る様にと祈り求めます。更に自分自身の罪を益々深く悲しみ、罪の許しを祈り求めます。」
イエス様がベタニアからエルサレムに向かわれた時の事が引用された。空腹を覚えられたイエス様はイチジクの木を見つけた。しかしそのイチジクには木の実が一つも無かった。そこでイエス様は「あなたから取って食べる者が永遠に無い様に」と言われた。するとそのイチジクの木にはその後ずっと実が成らなかった。神様の御力と御言葉を素直に受け留める事。信仰に忠実に在ればその人は枯れる事なく、その後ずっと栄える者に成る。
(公同礼拝)
『使徒行伝』(第一九章二一〜二七節)
『ダニエル書』(第七章一〜八節)
この『使徒行伝』の箇所では、パウロが弟子を連れて、マケドニヤとアカヤを通り、エルサレムへ行く決心をしたエピソードが記されてある。
しかしそのエルサレム迄の道には、容易ならぬ騒動が起きる事になる。
その道にはデメテリオと言う銀細工人が、銀でアルテミス神殿の模型を造って、職人達に少なからぬ利益を得させて居た。この男(デメテリオ)がその職人達や、同類の仕事をして居た者達を集めて言った、
「諸君、我々がこの仕事で、金儲けをして居る事は、ご承知の通りだ。然るに、諸君の見聞きして居るよ様に、あのパウロが、手で造られたものは神様ではない等と言って、エペソばかりか、殆どアジア全体に渡って、大勢の人々を説き付けて誤らせた。これでは、お互いの仕事に悪評が立つ恐れがあるばかりか、大女神アルテミスの宮も軽んじられ、延いては全アジア、いや全世界が拝んで居るこの大女神の御威光さえも、消えてしまいそうである」と。
これを聞くと、人々は怒りに燃え、大声で「大いなるかな、エペソ人(びと)のアルテミス」と叫び続けた。そして、町中が大混乱に陥り、人々はパウロの道連れであるマケドニヤ人ガイオとアリスタルコとを捕えて、一斉に劇場へ雪崩れ込んだ。パウロは群衆の中に入って行こうとしたが、弟子達がそれをさせなかった。アジア州の議員で、パウロの友人であった人達も、彼に使いを寄越して、劇場に入って行かない様にと、しきりに頼んだ。中では、集会が混乱に陥ってしまって、或る者はこの事を、他の者はあの事を、怒鳴り続けて居たので、大多数の者は、何の為に集まったのかも、分からないで居た。
先ず「自分の世界を誰が支配されて居るか?」これを正しく理解する事が必要である。この箇所の大意は、唯一誠の生けるキリストと、邪教のどちらが「今自分が居る場所を支配して居るか?」を理解する事に在る。
ひとえにキリストの真実と、邪教との戦いである。アルテミスを造り上げて居た者達はこのとき悪の側に付く者で、キリストの道に進むパウロとその弟子達の邪魔をする事になる。この事は現代にも変わらず起きて居る事であり、人間により様々な宗教が作り上げられ、その作った宗教とキリストの真実との戦いに成る。
『ダニエル書』ではこの邪教に付く者・即ち悪の側に付く者の事が記されて在り、その者らは多方四方から集まって来て、キリストの真実の道を邪魔する。その邪魔とは迫害と偽証と粛清を含めて居り、キリストの道に就く者達を葬ろうとするものである。
アルテミスを造り上げて居た者達は、「少なからぬ」とある事から多額の利益を得て居た事が分かる。その上でキリストの使者達を迫害し、デメテリオの言葉通りに読み取れば、その利益を守る為に、ガイオとアリスタルコを捕えた事も分かる。詰り人の手により作られた邪教に付く者達は、飽くまで、人間の利益・この地上での利益だけを目当てにそれを邪魔する者達を容赦なく、偽証を並べて非難し粛清して居るのである。この場合、そのキリストの使者達を葬る者達を支配して居るものは何か?それは邪教と人間の欲望である。
この事にはクリスチャンも陥り易い罠であり、クリスチャンも異邦人と同じく常に注意し、自分達が今何をして居るか?本当に正しい信仰に歩めて居るか?を問い続けねば成らない。イエス様を捕え、十字架に付けたのは、当時に権力を以て居た信仰者、それに通じる者達だった。この場合も彼等は自分達の地位と利益とを守る為にイエス様を迫害し、蹂躙し、総督ピラトに平伏しながらも高圧的に責め寄り、何が何でも「イエスを十字架に付けろ!」と叫んで居たのだ。そして異邦人である他の人々(群衆)を惑わせ先導したのも彼等であった。この事からも分かる様に、信仰に厚いと自身を崇め認めて居る者達こそ、この点に注意せねば成らない時がある。
また職人達の管理者の様に在ったであろうデメテリオの証言にしても曖昧である。
「あのパウロが、手で造られたものは神様ではない等と言って…」
と在るが、パウロならこの様に言わなかったのではないか。パウロなら、
「手で造ったものが偶像だ」
と断言して居たのではなかろうか。
詰り、唯一誠のキリストである神様の他に神様は無いと言う事で、「手で造ったもの」に限らず、心で造っても自然に出来ても、その条件・経過に拘らず、誠の神様の他は全て邪教・偶像に成る、と言う事である。ここに自分達(人間)の利益を守る為の偽証が見えるのである。
そして敵対する時、一方はもう一方が言う事と同じ事を言う。デメテリオは「大勢の人々を説き付けて誤らせた」と言い、これは「たぶらかした」と言うのと同じ事である。キリストの道に歩む者達も同じく、邪教に付く者・人間の利益を守る為に偶像を造りそれを崇めさせる者達の事を、やはり「彼等は大勢の人々を説き付けて誤らせた」と言い、「たぶからした」と言う。
ここでの大事も、唯一誠の正義を見極める心と目が必要となる。その心と目は人間の自力により成らず、必ず信仰と、神様の御力と聖霊の働きに依り成る。
この事を常に憶え、クリスチャン・異邦人問わず、全ての人が神様に創られた兄弟姉妹としてその正しい信仰に歩まされ、その為に神様に祈り続ける事が大事に在る。


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