(※本日はメッセージ動画を用意できませんでしたので、宣教師訓練センター・奥山実牧師のメッセージと、南大阪神愛福音教会のメッセージをアップして居ります。下記プログラムは男山教会のものです。)


前奏
招詞 コロサイの信徒への手紙 3章 1〜4節
詩 編 歌 6 編 8節
荒れ野にも油のしたたりあり
開 会 祈祷
主 の 祈り(週報裏面) 
十戒・祈祷(週報裏面)
子ども説教
子どもと親のカテキズム問 89 
「天のお父さまを呼ぶ」
こどもさんびか
つくりぬしをさんびします[改 4(1,2 節)] 
牧 会 祈祷
讃美歌 280番
聖書 
マタイによる福音書5章6節(新約P6) 
説教
「義に飢え渇く人の幸い」
石本耕一 
祈祷
讃美歌 259番
みことばの交読文 テモテ二 4章 6〜8節
感謝のささげものと執り成しの祈祷
頌 栄 543番
祝 祷
報告

聖書📙
マタイによる福音書5章6節


讃美歌〜♫🔔🌲


(週報裏面)


※5月26日礼拝説教動画はありません。

2024526日 礼拝説教 聖書箇所

マタイによる福音書5章6節


義に飢え渇く人々は、幸いである、

その人たちは満たされる。


(Mynote)🖋
二〇二四年五月二六日(日曜日)、今日も兄弟姉妹共に礼拝を守る事が出来、神様に感謝する。
(子供メッセージ)
『子供と親のカテキズム 問八九』
「『天にましますわれらの父よ』と言う『主の祈り』の呼び掛けは、私達に何を教えますか。」
「私たちは、神様の子供です。ですから、『私達の天のお父様』と呼び掛けて祈ります。しかも、独りぼっちではなく、神様の家族の一人として、神様の子供達と一緒に心を合わせて祈ります。」
(公同礼拝)
『マタイによる福音書』(第五章六節)
この箇所は、イエス様が弟子達を始め、全ての人に教えた山上の垂訓の箇所である。その内の「義に飢え渇いて居る人達は、幸いである。彼等は飽き足りる様になるであろう」と言う節を取り、今日のメッセージタイトルは「義に飢え渇く人の幸い」である。
社会(世間)には、様々な不条理がある。例えば現代日本の事。国民に散々「増税を持ち掛け、生活がそれでも楽な人と苦しい人とに分けられる。内政福祉が充実して居る日本と言われながら、実際蓋を開けて見ると、今でも普通に生活苦に強いられる人達が多勢居る。それでも法律の下(もと)、共存共栄を図る為にと統率が取られ、その現状に我慢しながら今日まで来て居り、その生活苦が一生続く者も在るだろう。そう言いながら特定の政治家や資本家は莫大な額の税金逃れを続け、それを言うのはタブー視され、緩い、暗闇の縛りにより、全ての国民は統率される。
権力者が生き、非権力者が死に絶える世の中は、過去から現在までずっと続けられて居る。そしてこの「特定の国会議員・資本家(者達)」と言ったが、この「特定」の数がどれだけ多いかと言えば、はっきりとした数字が分からないほど多いのである。又この様な事を言い続ければ「ただの嫉妬だ」等と非難され、変わらず権力者がしっかり守られるシステムが出来上がって居る。非常に上手い具合に、権力にとって、その権力が生きる世情が出来て居る。これが例えば人の世の中の一側面にある。
そしてこの聖書の時代、イエス様が生きて居られた時代でも、今とそれほど変わらない「権力が支配する時代・世情」が続いて居た。その権力にイエス様は捕えられ、十字架に付けられたと見て取る事も出来る。
その中でイエス様はこの山上の垂訓を人々に教え、神様の義と人の義とを明確に分け、神様と人との間の義に就いてのみ、ここで教えた。詰りこの箇所に在る「義」とは、人が所謂るこの世間で提唱する「義」とは違うものにある(先ずそう見る事が大事である)。
この箇所に在る「義」とは、神様の恵み・愛の事である。詰りイエス様が十字架に付けられ葬られ、陰府(よみ)に降り、三日目に死人の内より甦られ、全能の父なる神様の右に座し給えりと言う、この経過と結果の全てを指して「義」として居る。このイエス様の存在に依り、滅びるしか無かった全ての罪人は「復活・甦り・神様に依る天への救い」に与る事が出来、即ち、人の力ではどうしようも無かった(どうしても払拭し消す事の出来なかった)罪を消す事が出来、その罪の内から救われる契機が与えられたのだ。この事は全ての人にとって、最大の恵みであり救いであり、神様の人に対する愛である。イエス様は即ち愛の象徴である。
人の世界でも(所謂る世間でも)、人による義という言葉が飛び交っている。しかし人の義は人によって変わるものであり、曖昧であり、また罪の内から生まれた義により、その義も又罪による義と成る。詰りその義には正義が無く、一貫した姿勢も無く、幻の様なものになる。「その様に思い込んで居るだけ」の義であり、本来、全ての人に正義と悪義を識別し、決める事は出来ないのである。性善説という言葉があるが、その「性善」に就いても初めに「善の心」と「悪の心」を人は神様から待たされたから知って居るのであり、人が初めから(無から)作り上げ、自分に具えたものには無い。何度も此処で記して来たが、人は自分に就いて説明し尽す事が出来ず、生前・現在・死後の事に就いても説明出来ず、自然に就いて説明し尽せず、全ては初めに神様から与えられたものを享受して、その上で自由の選択肢も与えられ、善悪の際(きわ)、正義と悪義との間で正しい信仰に歩む事を試練として与えられて居る。この事を知るか否かによっても、人の義は又変わるものであり、ひどく曖昧な人の義である事が自ずと分かるのである。
聖書が言う「義」とは、聖書に在る神様が人に教えた事、イエス様を通して全ての人に教えた事柄を守る事に在る。例えば十戒を全て守る事、「隣人を愛せよ」とされたその御言葉を守る事など、神様から人に与えられた良い事を全て守る事に在る。
しかし全ての人は、例えば十戒の一つも守る事が出来ない。この点が大事にあるが、神様はイエス様を通し、人の全てを分かって下さる上で「義に飢え渇いて居る人達は、幸いである、彼等は飽き足りる様になるからである」と確約されたのである。詰りこれは赦しである。
人は理想を以て神様の国を見、信仰に生かされる上での自分の姿を見る。「神様に喜ばれる息子・娘に成りたい」と祈り願うのも、この理想から生まれる。しかしその理想を中々叶えられない。人には罪があり、その罪が悪魔の代わりとなって邪魔するからだ。罪に対し、人が自力で刃向かい道を正そうとしてもそれは成らない。罪一つが手強いのであり、人はその罪の内から自力を以て逃れる事が出来ないのである。
だからこそ常に神様に寄り縋り、常に信仰に一途と成れる様に努め、その事・姿勢を忘れず、だだイエス様の後を付いて行く努力をせねば成らない。そうせねば全ての人は譬えその理想に返り咲き、正しく生きようとしてみても、忽ち罪に遣られ、悪の道に踏み込むからだ。この事は全ての人に覚えがあろう。人を罪から救い得るものは、唯一、誠の救いなるキリストの真実、それへの信仰だけである。
「私は言っておく。あなた方の義が律法学者やパリサイ人の義に勝(まさ)って居なければ、決して天国に、入る事は出来ない。」(『マタイによる福音書』第五章二〇節)
この「律法学者やパリサイ人」というのは当時の権力者である上、この世の人間の事を指して居よう。詰り「人間だけの義に仕え、それを守り通すだけでは天の御国へ入れない」という事であり、これは人に仕えず、神様に仕える事を指して居る。その様に捉えて良いと信じる。人の義(今我々が守って居る人の法律)は一見この地上を支配して居る様に見えるが、その人を創られたのは神様であり、人がその神様の律法(教え)を守る事は当然であり、人の法律を守る前に守らねば成らない事に在る。この点に今、どれ程のこの地上の人が気付いて居るか?その事を知り、神様に向いて信仰に歩まされて居るか?この点を問う必要がある。これは各自が自分に問う事に在り、他人を見て非難する事柄には無い。
神様の前に立った時、「自分は神様が人に教えた義を完璧に守って居る」と誰が言えるか?詰り誰も居らず、神様から見れば全ての人が罪人に在るため五十歩百歩であり、その中で(同じ罪人の狢の中で)互いを非難し特定の人を崇めたところで無意味に近く、それは間違いである。神様の前で「私は罪人でない」と言える人は居ない。罪が無く、そう言えるのはイエス様だけである。
一見厳しい様に見えるが、この義は神様から人に与えられた恵みであり愛であり、全ての人にとって救いである。この点を覚える事が大事である。神様はイエス様を通して、全ての人の事をその人が知る以上に分かって居て下さり、一人子であるイエス様(十字架)を通して全ての人を罪から救って下さり、全ての人はその救いに与る契機を得る事が出来た。だからこそ全ての人は信仰に歩む必要があり、神様に近付き、神様の愛に応える事が当然であり、これは神様に依り創られた本来の人の姿に在る。

【男山教会ホームページ】☘️

【最寄りの教会検索用】☕️


Table Caffe〜🌲🏕☕️

【小説家になろう】

https://mypage.syosetu.com/2700663/

(お暇な時にでもぜひどうぞ😊☕️)