(※本日は機械の諸事情のため動画をご用意出来ず、セルチャーチ一粒の会礼拝説教と、ライトハウス自由が丘チャペルの小田影牧師のメッセージをアップさせて頂いて居ります)


前奏
招詞 コロサイの信徒への手紙3章1〜4節
詩 編 歌65編7節
水は畑に満ちてうね整い
開 会 祈祷
主 の 祈り(週報裏面) 
十戒・祈祷(週報裏面)
子ども説教
子どもと親のカテキズム問 88
「神さまに心を向ける」
こどもさんびか
イエスさまきょうもわたしを[改 7(全1節)]
牧 会 祈祷
讃美歌 183番
聖書
ヨハネによる福音書16章16〜24節(新約 P200)
詩編30編2〜13節(旧約 P860) 
説教 
「聖霊による救い
〜悲しみから永遠の喜びへ」
宮武輝彦
祈祷
讃美歌 333番 
みことばの交読文
ローマ 8 章 9~11 節
聖餐式
感謝のささげものと執り成しの祈祷
頌 栄 543番
祝 祷
報 告

聖書📙
ヨハネによる福音書16章16〜24節

詩編30編2〜13節

(口語訳聖書)


讃美歌♫〜🔔🌲


(週報裏面)


※5月19日礼拝説教の動画はありません。

2024519日 礼拝説教 中心聖句


はっきり言っておく。あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる。

ヨハネによる福音書1620


ひととき、お怒りになっても 命を得させることを御旨としてくださる。泣きながら夜を過ごす人にも 喜びの歌と共に朝を迎えてさせてくださる。

詩編306


はじめに

聖霊の恵みによって、今日、主イエスの約束された真の喜びを、心に留めたい。

「しばらくすると」と、主イエスは弟子たちに語りだされた。訳語からは多少の猶予も感じるが、「わずかな、短い間に」「もう時期」。じっさいには翌日。あとで「今は、はっきりとお話しになり、少しもたとえを用いられません」(1629節)と弟子が答えているように、ある段階的な伝達を取る。先は、「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください」と、「天を仰いで言われた」(ヨハネ171節)、祈りに向かう。「あなたがたはもうわたしを見なくなる」と言いながら、もう時期、「わたしを見るようになる」と言われ、弟子たちは困惑する。また、「『父のもとに行く』とか言っておられるのは、何のことだろう」と首をかしげる。とくに、「もう時期」とは何のことか(?!)と当惑する。「何を話しているのか分からん(!)」と。

「イエスは、彼らが尋ねたがっているのを知って」とは、弱きものに寄り添っておられるがゆえに察しておられたこと。もう時期、「あなたがたはわたしを見なくなるが」、また間近に「わたしを見るようになる」と、「わたしが言ったことについて」答えを見つけようとしているのか、と問いかける。そこで、主イエスは、「アーメン、アーメン、わたしはあながたに言います」と言われ、「あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる」と言う。それは、弟子たちからすれば、思いがけない言葉。なぜなら、不安と恐れにまさって、「悲しみ」こそ、弟子たちの深い感情そのものだったから。世の悲しみは、不義に覆わ。しかし、真の悲しみを知っておられる主イエスは、弟子から離れることによって生じる一時の悲しみにまさって、世の罪ゆえの悲しみを負う、ご自身の苦しみのゆえに、「あなたがたは悲しむが、その悲しみが喜びに変わる」と言う。それは、罪赦された者の永遠の喜びに至る道。主イエスは生みの苦しみは、人が世に生まれる喜びにおいて、思い出されることはないことのように、永遠の喜びがもたらされることを約束される。それは、同時に、今の悲しみは、忍耐の時であることを物語る。主イエスの十字架に至る道のように、今、わたしたちが負う道は、キリストのゆえに、栄光の御国に凱旋する日までの忍耐を伴う。それは、なお罪と弱さゆえに、不完全なもの。

「ところで、今はあなたがたも悲しんでいる。しかし」と、主イエスは、弟子たちとの「再会」の喜びの日を告げる。事実、主イエスの復活の日、弟子たちは、「主を見て喜んだ」(2020節)。また、昇天の日には、主イエスの祝福の中に、「彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた」(ルカ245153節)。もはや、イエスの姿が人の目から見えなくなっても、弟子たちは、主を喜んで礼拝する者に変えられた。「キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じおり、言葉では言い尽くせない喜びに満ちあふれて」(ペトロ一18節)。イエスの名によって、父に願うとは、実に、復活と昇天の御業の中で、子とされて祈ること。再び来られる主を信じて。それは、弟子たち同様に、永遠の「喜びで満たされる」祈りと従順の道。

おわりに

「あなたはわたしの嘆きを喜びに変え 粗布を脱がせ、喜びを帯びとしてくださいました」との声は、今日、聖霊の恵みの中に、十字架の主キリストを、礼拝する者の声。


(Mynote)🖋
二〇二四年五月一九日(日曜日)、今日も兄弟姉妹共に礼拝を守れる事を神様に感謝する。
(子供メッセージ)
『子供と親のカテキズム 問八八』
「イエス様が祈りの手本として教えてくださった『主の祈り』の内容は何ですか。」
「それは、神様への賛美、感謝、私達の罪の赦し、願い事、他の人達の為の執り成しなどを含んでいます。」
(公同礼拝)
『ヨハネによる福音書』(第一六章一六〜二四節)
『詩篇』(第三〇編二〜一三節)
この両箇所は、信仰と、神様から全ての人に与えられる永遠の喜びと恵みと救いに就いて記されて居る。信仰生活に歩む全ての人は、必ずイエス様を通り、その上で神様に慰められ、癒され、死しか無かった罪の淵より甦る。
「暫くすれば、あなた方はもう私を見なくなる」
とは、イエス様が一度地上から天に引き上げられ、弟子達を始め、全ての人の前から居なくなる事、触れる事も見る事も出来なくなる事を教えられたか。そして、
「しかし、又暫くすれば、私に会えるであろう」
と教えたのは、イエス様が再び地上に来られる再臨と、その再臨迄の間に祈りに依ってイエス様の姿を見る事が出来、そのイエス様を通して、神様から恵みが与えられる事を諭す為だったか。
「あなた方が父に求めるものは何でも、私の名に依って下さるであろう。今迄は、あなた方は私の名に依って求めた事は無かった。求めなさい、そうすれば、与えられるであろう。そして、あなた方の喜びが満ち溢れるであろう」
このイエス様が弟子達を始め全ての人に教えた御言葉は、イエス様が天に引き上げられたのち霊的な存在と成り、その聖霊に依り弟子達を始め全ての祈る者・信仰に生かされる者達と共に居て下さり、そのイエス様の御名に依り祈り願う事に神様は必ず耳を傾けて下さる事、その事を諭して居られた。
しかし現実を生かされる全ての人(現代人)にとって、やはりこの世は試練の時に在る。全てが全て理想通りには中々行かず、悲しみ、不安・恐怖・苦しみに遭う事がしばしばあり、そんな時、心の底から祈り願い求めても、又中々その祈りが聞かれた状況に報われない事が多い。
しかし又これ等の事は、人の欲望により、罪により、人間だけの視点・主観から成る夢や理想に成り易く、その主観と理想から神様を思わず自分(人間)の事を思い続け、その上での祈り願いにすり替わる瞬間を知る。これに気付くのは随分経ってからの事も多く、その時には中々気付けない。それで信仰に躓き、ノンクリスチャンの場合は人の世に絶望を覚え、救いを見出せない儘この世を去る者も在る。
詰り「人の救いとは何か?」を本気で問い、その上で唯一誠であるキリストの真実、その真実から成る信仰に気付き、その信仰に生かされる事に依って初めて人の救いが得られる事を知らねば成らない。
『詩篇』では、特に信仰生活を送りながらも苦難に遭い、人生にやって来る様々な状況での喜怒哀楽を共にし、その上でやはり人による罪の刃に負け易く、神様にひたすら祈り願い求め、何としても救われたいとする人の本能・正直が記される。
時代を越えても人の本質は変わらず、今でも世にある「苦しい時の神頼み」の習慣を人は抱えて覚え、窮地に立った時にだけ神様に救いや癒しを祈り願い求め、主従が逆転する絵を見る事も少なくない。
五体満足で居る普段の健康の内から、常に自分に与えられる神様からの恵みを喜び、それを感謝し、例えばそれに感動して泣く者達が現在どれ程居ようか?そんな事で泣いて居れば「あの人はおかしい」「何を泣いてる?」等と様々な雑言が湧いて出て、馬鹿にされる事も多いだろう。
しかし、神様が全ての人に与えた恵みとはそう言う事なのであり、常に喜びと癒しと救いに満ち溢れ、その事を感謝してし尽せない豊かさがある。これに感謝出来ないと言うのは、人間による欲望が信仰から外れ違う方を向いて居り、求めるものが神様の喜ばれない事、人として自分が欲しいもの、罪の産物に在る邪なものであり、その信仰の豊かさ・信仰に依り得られる恵み、従い神様がイエス様を通して全ての人に確約した罪(滅び・死)からの復活に気付く事無く、延々と人間の罪・欲望による望みだけを欲して居るからそう成るのである。これは物が豊かになり、様々なものを時間も労も掛けず即座に手に出来る現代にこそ問われる事に在り、人が生まれ持った本来の恵みを忘れ、人が作り出した産物の内からのみ利益を求めようとする、信仰から離れた姿勢の為す業に在る。その「人が作り出したもの」を作れる能力・才能を与えた方は誰か?そもそも人に命を与えた方は誰か?この当り前の常識・真実を神様の下(もと)で知り、人の本来の姿に気付く事から信仰の本質が得られるのである。
信仰に生かされるなら、神様はイエス様を通して全ての人に救いを与えた様に、必ず救われる。その救いを救いと見ないのは罪の為であり、ただ真実から遠回りをして居る姿に過ぎない。
「主(しゅ)よ、あなたは私の魂を陰府(よみ)から引き上げ、墓に下る者の内から、私を生き返らせて下さいました」
「その怒りはただ束の間で、その恵みは命の限り長いからである」
「夜はよもすがら泣き悲しんでも、朝と共に喜びが来る」
「私は安らかな時に言った、『私は決して動かされる事はない』と」
「あなたが御顔を隠されたので、私はおじ惑いました。主よ、私はあなたに呼ばわりました。ひたすら主に請い願いました。『私が墓に下るならば、私の死に何の益があるでしょうか。塵(ちり)はあなたを褒め称えるでしょうか。あなたの誠を宣べ伝えるでしょうか。主よ、聞いて下さい、私を憐れんで下さい。主よ、私の助けとなって下さい』と」
今泣き悲しんで居ても、信仰に生かされて救われるなら、その悲しみは喜びに変わる。人の世界で人の主観や常識・合理により不幸に見えても、神様の下(もと)、即ち信仰に於いてそれは不幸ではなく、永遠の救いに依る喜びに至る過程に過ぎない。全ての人には限りが有る。人がこの世で作り出したものにも限りが有る。その限りだけの内に、人は本当の救いを見知る事は無い。
信仰に依り頼み、神様に祈り願い求める事が、本来、全ての人の取るべき生き方に在る。信仰に於いてイエス様の名に依り神様に祈り願い求める事は、イエス様がこのとき弟子達を始め、全ての人に教えた「救いを求める姿の内実」に他成らない。そう信じる事が出来るのではないか。

【男山教会ホームページ】☘️
Table Caffe〜🌲🏕☕️

(お暇な時にぜひどうぞ😊☕️)