(※本日は機械の諸事情のため動画をご用意出来ず、セルチャーチ一粒の会礼拝説教と、ライトハウス自由が丘チャペルの小田影牧師のメッセージをアップさせて頂いて居ります)
※5月19日礼拝説教の動画はありません。
2024年5月19日 礼拝説教 中心聖句
はっきり言っておく。あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる。
ヨハネによる福音書16章20節
ひととき、お怒りになっても 命を得させることを御旨としてくださる。泣きながら夜を過ごす人にも 喜びの歌と共に朝を迎えてさせてくださる。
詩編30編6節
はじめに
聖霊の恵みによって、今日、主イエスの約束された真の喜びを、心に留めたい。
1
「しばらくすると」と、主イエスは弟子たちに語りだされた。訳語からは多少の猶予も感じるが、「わずかな、短い間に」「もう時期」。じっさいには翌日。あとで「今は、はっきりとお話しになり、少しもたとえを用いられません」(16章29節)と弟子が答えているように、ある段階的な伝達を取る。先は、「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください」と、「天を仰いで言われた」(ヨハネ17章1節)、祈りに向かう。「あなたがたはもうわたしを見なくなる」と言いながら、もう時期、「わたしを見るようになる」と言われ、弟子たちは困惑する。また、「『父のもとに行く』とか言っておられるのは、何のことだろう」と首をかしげる。とくに、「もう時期」とは何のことか(?!)と当惑する。「何を話しているのか分からん(!)」と。
2
「イエスは、彼らが尋ねたがっているのを知って」とは、弱きものに寄り添っておられるがゆえに察しておられたこと。もう時期、「あなたがたはわたしを見なくなるが」、また間近に「わたしを見るようになる」と、「わたしが言ったことについて」答えを見つけようとしているのか、と問いかける。そこで、主イエスは、「アーメン、アーメン、わたしはあながたに言います」と言われ、「あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる」と言う。それは、弟子たちからすれば、思いがけない言葉。なぜなら、不安と恐れにまさって、「悲しみ」こそ、弟子たちの深い感情そのものだったから。世の悲しみは、不義に覆わ。しかし、真の悲しみを知っておられる主イエスは、弟子から離れることによって生じる一時の悲しみにまさって、世の罪ゆえの悲しみを負う、ご自身の苦しみのゆえに、「あなたがたは悲しむが、その悲しみが喜びに変わる」と言う。それは、罪赦された者の永遠の喜びに至る道。主イエスは生みの苦しみは、人が世に生まれる喜びにおいて、思い出されることはないことのように、永遠の喜びがもたらされることを約束される。それは、同時に、今の悲しみは、忍耐の時であることを物語る。主イエスの十字架に至る道のように、今、わたしたちが負う道は、キリストのゆえに、栄光の御国に凱旋する日までの忍耐を伴う。それは、なお罪と弱さゆえに、不完全なもの。
3
「ところで、今はあなたがたも悲しんでいる。しかし」と、主イエスは、弟子たちとの「再会」の喜びの日を告げる。事実、主イエスの復活の日、弟子たちは、「主を見て喜んだ」(20章20節)。また、昇天の日には、主イエスの祝福の中に、「彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた」(ルカ24章51~53節)。もはや、イエスの姿が人の目から見えなくなっても、弟子たちは、主を喜んで礼拝する者に変えられた。「キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じおり、言葉では言い尽くせない喜びに満ちあふれて」(ペトロ一1章8節)。イエスの名によって、父に願うとは、実に、復活と昇天の御業の中で、子とされて祈ること。再び来られる主を信じて。それは、弟子たち同様に、永遠の「喜びで満たされる」祈りと従順の道。
おわりに
「あなたはわたしの嘆きを喜びに変え 粗布を脱がせ、喜びを帯びとしてくださいました」との声は、今日、聖霊の恵みの中に、十字架の主キリストを、礼拝する者の声。
(子供メッセージ)
『子供と親のカテキズム 問八八』
「イエス様が祈りの手本として教えてくださった『主の祈り』
「それは、神様への賛美、感謝、私達の罪の赦し、願い事、
とは、イエス様が一度地上から天に引き上げられ、弟子達を始め、
「しかし、又暫くすれば、私に会えるであろう」
と教えたのは、イエス様が再び地上に来られる再臨と、
「あなた方が父に求めるものは何でも、
このイエス様が弟子達を始め全ての人に教えた御言葉は、
しかし現実を生かされる全ての人(現代人)にとって、
しかし又これ等の事は、人の欲望により、罪により、
詰り「人の救いとは何か?」を本気で問い、
『詩篇』では、特に信仰生活を送りながらも苦難に遭い、
時代を越えても人の本質は変わらず、今でも世にある「
五体満足で居る普段の健康の内から、
しかし、神様が全ての人に与えた恵みとはそう言う事なのであり、
信仰に生かされるなら、
「主(しゅ)よ、あなたは私の魂を陰府(よみ)から引き上げ、
「その怒りはただ束の間で、その恵みは命の限り長いからである」
「夜はよもすがら泣き悲しんでも、朝と共に喜びが来る」
「私は安らかな時に言った、『私は決して動かされる事はない』
「あなたが御顔を隠されたので、私はおじ惑いました。主よ、
今泣き悲しんで居ても、信仰に生かされて救われるなら、
信仰に依り頼み、神様に祈り願い求める事が、本来、
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