前奏

招詞

コロサイの信徒への手紙 3章 1〜4節

詩 編 歌 65編 6節

歌声は全地に響きわたらん

開 会 祈祷

主 の 祈り(週報裏面) 

十戒

祈祷(週報裏面)

子ども説教

子どもと親のカテキズム問 87 

「神さまの御心を求めて」

こどもさんびか

あいのしゅイェスは[改 124(3,4 節)] 

牧 会 祈祷

讃美歌 361番

聖書

ヨハネの黙示録19章5〜10節(新約P475)

ダニエル書 12章 5〜13節(新約 P1401) 

説教

「小羊の婚宴〜召天者記念礼拝の祝福」

宮武輝彦

祈祷

讃美歌 355番

みことばの交読文

テサロニケ一4章14〜17節

感謝のささげものと執り成しの祈祷

頌 栄 543番

祝祷

報告


聖書📙

ヨハネの黙示録19章5〜10節

ダニエル書 12章 5〜13節(新約 P1401)

(口語訳聖書)


讃美歌〜♫🌲🔔


(週報裏面)


2024512日 礼拝説教 中心聖句


わたしたちは喜び、大いに喜び、神の栄光をたたえよう。小羊の婚礼の日が来て、花嫁は用意を整えた。

 ヨハネの黙示録197


「終わりまでお前の道を行き、憩いに入りなさい。時の終わりにあたり、お前に定められている運命に従って、お前は立ち上がるであろう。」

ダニエル書1213


はじめに

召天者記念礼拝の今日、キリストにあって、神の栄光をたたえる礼拝を求める。

「また、玉座から声がして」とは、「一度は死んだが、見よ、世々限りなく生きて、死と陰府の鍵を持っている」(1章18節)御方、イエス・キリストの声。「すべて神の僕たちよ、神を畏れる者たちよ、小さな者も大きな者も、わたしたちの神をたたえよ」。地上の生涯において一度洗礼を授けられた召天者たちは、今、天上で、キリストの栄光にまみえ、礼拝を神とキリストにささげている。地上の教会は、キリストの霊の臨在の中に、天上の礼拝とひとつされて、礼拝をささげる。わたしたちのささげる礼拝は、天上の礼拝を証しする。キリストの声は、今日、わたしたちを礼拝へと招く。「わたしはまた、大群衆の声のようなもの、多くの水のとどろきや、激しい雷のようなものが、こう言うのを聞いた。『ハレルヤ、全能者であり、わたしたちの神である主が王となられた。』」とは、神の臨在を証しする賛美の中で、キリストが王となられたことを宣言する。キリストは、天と地の支配者にして、全能者として、すべての人の命の主。人の生涯は、この御方の恵みと定めの中にある。

「わたしたちは喜び、大いに喜び、神の栄光をたたえよう」とは、賛美への招き。じつに、まことの王でいますキリストは、十字架の上にご自身の命をささげられた、神の小羊。「小羊の婚礼の日が来て、花嫁は用意を整えた」とは、花婿でいますキリストと花嫁できます教会の婚礼。結婚は地上の制度。永遠の契りは、キリストとの交わりにある。洗礼は、キリストとの聖なる交わり(霊的結合)を証しする。永遠の御国では、もはや、嫁いだり、娶ったりすることなく、ただ、花嫁でいます教会は、永遠に、花婿でいますキリストを御使いたちとともに、ほめたたえる。「花嫁は、輝く清い麻の衣を着せられた。この麻の衣とは、聖なる者たちの正しい行ないである」。洗礼も、善行も、人を罪から救う条件ではない。「それから天使はわたしに、『書き記せ。小羊の婚宴に招かれている者たちは幸いだ』と言い、また、『これは、神の真実の言葉である』とも言った」。「勝利を得る者は、このように白い衣を着せられる。わたしは、彼の名を決して命の書から消すことはなく、彼の名を父の前と天使たちの前で公に言い表す」(35節)。じつに、キリストにあって、神の勝利を宣言された者たちは、命の書にその名を記され、聖なる交わりは、永遠に保証される。

「わたしは天使を拝もうとしてその足もとにひれ伏した」とは、天使から良い知らせを聞いたヨハネの大きな反応。しかし、この行動は、御心に適うものではなかった。天使はヨハネに言った。「やめよ。わたしは、あなたやイエスの証しを守っているあなたの兄弟たちと共に、仕える者である神を礼拝せよ」と即座に制する。なぜなら、「イエスの証しは預言の霊」だから。ここで「イエスの証し」とは、キリストのために命を捨てるほどの献身。「預言の霊」とは、それがどれほど尊いものであっても、礼拝の対象ではないことを明らかにする。つまり、わたしたちが礼拝をささげるお方は、神とキリストのみ。神の賜物は、人の栄誉よりも、神の栄光をたたえるにふさわしいもの。偶像礼拝は、人を神とする罪。

おわりに

少年のとき異国バビロンに連れて来られたダニエルは年老いた日、主の幻を見た。それは、ダニエルの生涯を終わり、永遠の憩いとともに立上がる日を告げる。イエス・キリストの復活は、新しいからだを与えられる復活の日の保証、それは今日を生きる希望。


(Mynote)🖋


二〇二四年五月一二日(日曜日)、今日も兄弟姉妹共に礼拝を守れる事を神様に感謝する。
(子供メッセージ)
『子供と親のカテキズム 問八七』
「この世の人達もお祈りをしますが、神様の子供達のお祈りと、どう違うのですか?」
「この世の人達のお祈りは、神様の事ではなく、自分の益の為だけの願い事です。神様の子供である私達は、神様を崇め、神様の御心を求めて祈ります。ですから、聖書の言葉に耳を傾けつつ、祈る事が大切です。」
祈りの出どころと、その祈る対象の問題に在る。神様の御心を知り(知る為の努力を祈りを以て続け)、人の主観ではなく神様と目線で物事を図る・見定める事が大事に成る。その為には先ず聖書に聴き、神様が全ての人に何を求めて居られるか?信仰生活とはどう言うものか?を具体的に知り、そこで教えられる事、即ち神様が人に教えた事に沿う事が大事に成る。そこで生まれる祈りは先ず神様から愛される事への感謝に在り、今を以て生かされて居る事の神様の愛と恵みと憐れみを知る事に成り、その上で神様と人である自分の間に祈りが生まれる事に成る。詰り、祈りの本質を知る必要があると言う事。日本人を含め、地上で神様を知らない人々(所謂る異邦人・ノンクリスチャン)の間ではご利益宗教が流行り、そのご利益を目指す祈りに終始しがちである。その姿勢の根本を直す必要があり、信仰に生かされ祈る以上、必要なものは全てその時に備えられる事を知る。この事が大事に在る。
(公同礼拝)
『ヨハネによる福音書』(第一九章五〜一〇節)
『ダニエル書』(第一二章五〜一三節)
この両箇所には先ず、世の終わりの事・世の終わりに繋がる様々な事柄が記されてある。その事を先ず踏まえ、読み、学ぶ事が必要である。
「その時、御座から声が出て言った」とは、神様の御言葉を受け継いだ天使が、全ての人に大きな声で知らせる声である。
「全ての神の僕(しもべ)達よ、神を畏れる者達よ。小さき者も大いなる者も、共に、我らの神を賛美せよ。」
全てのクリスチャンを始め、ノンクリスチャンの内でも神様をその時に信じ、救われる者に告げられる。
「小羊の婚姻」とは一言で言えば、天国で為される礼拝の事である。全ての罪人である人間は、信仰に生かされる上、イエス様を通して神様が人に約束した通り、イエス様を先駆けにして罪の淵(即ち死)から救われる。これが甦りであり、信仰に生かされ、神様に救われる全ての人は、死からその復活が約束される。「天上の教会」という言葉があるが、これが「天国で為される礼拝の事」。再臨の時、天に上げられる時、既に亡くなった人が先ず天に引き上げられ、次にそのとき生き残って居る他のクリスチャン達が空中に引き上げられ、共に天の御国へ入る。これ等の事は、全ての人にとって理解出来ない事柄となる。人の知識・常識・合理を超えた事に在るからだ。だからこそ「信じる事・信じる力(即ち信仰の力)」が必要に成り、信仰に歩まされる全ての人は、自分の信仰が神様の御力と聖霊の働きに依り生長させられる事が必要になる。
「小羊」とは、イエス・キリストの事である。「小羊の婚姻」とは天国で為される礼拝であり、聖徒達の交わりの事である。全ては、生ける誠の唯一なる救い主、イエス様とその御父である神様の下(もと)で成される事である。この「生ける誠の唯一なる救い主、イエス様とその御父である神様の下(もと)で成される事」を知り、信じる事が大事に在る。
花嫁たる教会が、花婿たるイエス様を迎えて居る事、この事を知る必要がある。そもそも結婚とは聖なるものに在る。その聖なる礼拝を穢すのが人の罪である。聖なる者だけが集まる教会に、罪深い儘の者が集まる事には大きなギャップが在り、人の合理から見ても「有り得ない事」に成ろう。このどうしようも無い人の罪が、信仰に依り、救い主なるイエス様の存在・贖い・救いに依り清められ、罪人が聖なる者に成る。
日本でもよく「犠牲者」が美化される。靖国神社では英霊が祀られ、その英霊とは戦争で亡くなり(死に)、国の為に命を捧げた者達の事である。キリスト信仰では、決して「死者その者を崇める事」をせず、飽くまで、イエス様の贖いに依り新しい命を得させられる罪人の事、その罪人(イエス様には罪が無い為イエス様以外の全ての人)が罪の内から救われ、天の御国へ入る事を信じて知り、理解し、その事を祝い、喜び、崇めるのである。即ち死者を崇めるのでなく、飽くまで神様を崇め、イエス様を崇め、罪の内に死ぬ(滅びる)しか無かった全ての人が、その救いに依り救われる事を喜び、祝い、感謝する。この根本的な違いが先ず在る。詰りキリストの唯一真実である神様を知り、信じて居るかどうか?この一点が大事に成る。この点で神様を信じず知らない者達は、ただ死者その者を崇める事に留まり、又は自分達で作り上げた邪教の神を崇めるに留まり、真実の神様、真実の救い主、真実の救いを知らない儘で喜び、妄想の救いに右往左往し漂う事に成る。
この小羊の婚姻の日は必ず来る。全てのクリスチャン、神様に救われた人が天に上げられる時であり、所謂る再臨の時である。しかし全ての人は、その時が何時(いつ)なのかを正確に知らない。だから常に信仰に目を覚まし、信仰に依り救われる歩みに努めねば成らない。その努力と機会と環境は神様から人に与えられ、神様に自分の全てを委ねる覚悟から生まれる。この覚悟は同じく神様から人に与えられる契機に依り成り、人が自力で努力し続けて得るものには無い。
先ず自分から神様に近付き、信仰への理解を得る必要がある。それにより自然と感謝の心が芽生え、人が本来在るべき内実と姿に辿る。信仰に生かされる上で、救われる事は全て神様がなさって下さる。それに就いて人がどうこう言う事は無い(初めから罪人である人にどうこう言える資格は無い)。自力ではどうする事も出来ない罪を、神様を信じ、イエス様を信じて、信仰に生かされる事に依り、まるで帳消しされる様に許され、救われる。この事に就いては感謝しか無い。そしてこの救いに辿る経過が全て神様に依り賄われ、人はただ信仰に生かされる事だけを感謝し、それを続け、その信仰から外れない様に注意する事が大事になる。教会の内と外でも、神様を崇めないで人を崇める事は辞めねば成らない。人はみな兄弟姉妹に在り、天使でさえ自分を崇めようとした人に向かい、
「その様な事をしてはいけない。私は、あなたと同じ僕仲間(しもべなかま)であり、又イエスの証人(あかしびと)であるあなたの兄弟達と同じ僕仲間である。ただ神だけを拝しなさい。イエスの証は、即ち預言の霊である。」
と教えて居る。
ダニエルが見たのは所謂る幻(ゆめ)であり、これは神様から天使を通して与えられた預言の内容である。この世の終わりの時の事が語られて在り、
「最後まで信仰に生かされ、神様から自分に与えられた地上での仕事に就き、充分に力を発揮する事」
が大事とされて居る様だ。「最後まで耐え忍ぶ者は幸いである」と教えたイエス様の言葉に通じるものを感じ、信仰から外れず、最後までイエス様の後に生かされ、神様の下(もと)へ辿る努力が大事に在る。


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