前奏

招詞 コロサイの信徒への手紙3章1〜4節

詩 編 歌 65編 5節

神は、海の響き波のひびき

開 会 祈祷

主 の 祈り(週報裏面)

十戒・祈祷(週報裏面)

子ども説教

子どもと親のカテキズム問 86

「神さまとお話しする」

こどもさんびか

あいのしゅイェスは[改 124(1,2 節)]

牧 会 祈祷

讃 美 歌 66番

聖書

詩編 22編20〜32節(旧約 P853)

ヘブライ人への手紙 3章1〜6節(新約 P403)

説教

「主の備えられた礼拝

〜天の召しにあずかる兄弟たち」

宮武輝彦

祈祷

讃美歌 259番

使 徒 信条

聖餐式 

感謝のささげものと執り成しの祈祷

頌 栄 543番

祝祷

報告


聖書📙

詩編 22編20〜32節


ヘブライ人への手紙 3章1〜6節

(口語訳聖書)


讃美歌〜🌲🔔

https://m.youtube.com/watch?v=Wh9dDUP97S0&pp=ygUQ6K6D576O5q2MIDI1OeeVqg%3D%3D


(週報裏面)


202455日 礼拝説教 中心聖句


主よ、あなただけは わたしを遠く離れないでください。わたしの力の神よ 今すぐにわたしを助けてください。

詩編2220


だから、天の召しにあずかっている聖なる兄弟たち、わたしたちが公に言い表している使者であり、大祭司であるイエスのことを考えなさい。

ヘブライ人への手紙31


はじめに

キリストの昇天の御業を覚え、あすの召天者記念礼拝・聖霊降臨日に備えたい。

「主よ、あなただけは」とは、キリストにおいて成就された預言的詩編と理解すれば、御父への孤独な祈りと信じられる。「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください」「父よ、今、御前でわたしに栄光を与えてください。世界が造られる前に、わたしがみもとで持っていたあの栄光を」(ヨハネ171,5節)と祈られた、イエス・キリストは、ご自身の栄光をむなしくされて、祈りをささげられた。わたしたちが、神の栄光をたたえて生きるために不可欠なことは、神との交わりを失った「罪人」にとって、祈りとは、たとえ一人であっても、神に近づいて祈る道を、ただ、唯一の仲保者イエス・キリストにおいて開かれたことを信じること。「主よ、あなただけは わたしを遠く離れないでください。わたしの力の神よ 今すぐにわたしを助けてください」とは、「剣」「犬ども」「獅子の口」「雄牛の角」という、渦中に置かれている試練と苦難、霊肉における苦痛からの救いを求める危急の祈り。「わたしに答えてください(くださる)」とは、その思いの底には、全能の御父(主なる神)への深い確信と信頼がある。

「わたしは兄弟たちに御名を語り伝え」とは、救われた喜びと感謝を歌い始めるもの。ダビデは、姦通の罪を犯した時に与えられた子が死んだとき、「断食したところで、何になろう。あの子を呼び戻せようか。わたしはいずれあの子のところに行く。しかし、あの子がわたしのもとに戻ってくることはない」(サムエル下1223節)と言った。命の主である神に、子と自分の生涯をゆだねた者としての告白。イエス・キリストは、ゲツセマネの園で祈られ、弟子の一人イスカリオテのユダの裏切りによって敵の手に引き渡された。キリストご自身、その身に、罪と死と断絶の思いを引き受けられた。受難の言葉が、御名を伝える言葉に転じる奥義は、ただ、主にすべてをゆだねた、神の小羊でいます、御子の十字架と復活、昇天:着座にある。ヘブライ人への手紙2章において、「事実、人を聖なる者となさる方も、聖なる者とされる人たちも、すべて一つの源から出ている」と言われる時、この「一つの源」とは、地においてはアダムであり、天においては神である。実に「アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされる」(コリント第二1522節)道が、開かれた。ここに、本当の贖罪と罪の赦し、命の道がある。「集会の中であなたを賛美します」とは、キリストの贖いのゆえに、神の家族とされた者たちの告白。礼拝において、命の言葉でいますキリストの御名が、証しされる。伝道の最高の機会。

「地の果てまですべての人が主を認め」とは、キリストに贖われた者たちの執り成し。「天の召しにあずかっている聖なる兄弟たち」への奨励は、「わたしたちが公に言い表している使者であり、大祭司であるイエスのことを考えなさい」。地から天へ、死から命へ、思いを向けるとき、わたしたちは、「キリスト」が「御子として神の家を忠実に治められる」ことを信じ、この「確信と希望に満ちた誇りを持ち続ける」「神の家」として献身する。

おわりに

「万物を造られたのは神」。万人の救いを望んでおられるまことの神は、御子の命をもって罪人を救う道を備えられた。今日、わたしたちがささげる礼拝の備えは、救いの備えの中におかれた恵み。天の召しにあずかる者たち皆、共に、主にのみ栄光を帰したい。


(Mynote)🖋

二〇二四年五月五日(日曜日)、今日も兄弟姉妹共に礼拝を守れる事を神様に感謝する。
(子供メッセージ)
『子供と親のカテキズム 問八六』
「私達は罪人なのに、神様と交わり、神様とお話しする事が出来るのですか。」
「はい、出来ます。私達は、イエス様に依って罪を許され、神様の子供とされ、神様と交わり、お話し出来る様にされて居ます。ですから、私達はイエス様のお名前に依って、子供らしく素直に何でもお祈りします。」
神様は全ての人に命を与えられ、生かされる為のこの土台(地球・自然等)を用意され、全ての人に恵みを与えたと同時に、命の親である神様は全ての人の親である。クリスチャンが互いを兄弟姉妹と呼ぶのはその為であり、全ての人はこの事実に目と心を留め、自分の親である神様に何でもお祈りし(お話し)、全てを委ねられる強さと安らぎを得る事が大事に在る。神様は全ての人の祈り(お話)を必ず聴いて下さる。その為の信仰を持ち、その信仰が神様の御力と聖霊に依り養われる事が何より大事に在る
(公同礼拝)
『詩篇』(第二二篇二〇〜三二節)
『ヘブル人への手紙』(第三章一〜六節)
この『詩篇』では先ず人生の苦楽が述べられた上、人生を生かされる上での苦しみの方に人々が陥り易く、そこで心を留め、闇の内に足踏みする事の不安・恐怖・苦しみの恐れが描かれる。その上で全ての人を統べ納められる者は神様であり、それ故に全ての人は神様の平安の内に初めから在り、祈りに依り、信仰に依り、何より神様の御力と聖霊の働きに依り安らぎが約束され、人の世にイエス様が「既に勝って居る」と教えられる通り、人の世の罪による災いは神様の下(もと)で、信仰に於いて恐れるものに無い事を教える。だがこの境地に辿り着くには人の自力では無理であり、必ず信仰の力に依り、祈りに依り神様に変えられなければ成らない。人はよく自力でその境地へ辿ろうとする。これは傲慢に在り、一時(いっとき)でも神様を忘れ、信仰の力・働きを忘れ、聖霊の働きを心で忘れた状態に成る。この点にクリスチャンを始め、全ての人が注意せねば成らない。注意せねば、必ず全ての人は己が独裁者と成り、何もかもを自分(自力)で取り決め、罪からの、この世の災い・不安・恐怖・苦しみから逃れる法も、全て人であるその自力で取り決める事に成るからだ。この悪魔の罠に陥っては成らない。悪魔は常に全ての人を神様の側から引き離し、不信仰の途(みち)へと誘(いざな)う者である。
この地球上を見て居ると分かる様に、それでも全ての人が日曜日に礼拝し、神様を賛美し、信仰生活を送る者達ばかりではない。どちらかと言えば世界中を見れば礼拝の時間は特別のものに成り、普段の生活では人の常識・合理により幸・不幸が決められ、この世の価値観を全て人が自分の思い(心)と習慣により決めて居る様だ。まさに日本では「クリスチャン人口が一パーセントに満たない」と言われて久しく、この傾向は更に強く見られるものである。
自分の全てに就いて説明出来ない人間が、分からない事を分からない儘に取り決め、まるで全てを悟った様に振る舞い、考え、人の間で優越に浸ったり傲慢になったり、或いは悲しく(哀しく)なったり、喜んだりして居る。そしてそれが当り前だと又決め、それ以上深く考える事をせず、分からないものは分からないとして、また「分からない」を土台にした人の常識・合理の内に流れ続ける。
全ての人は、自分の命を与えた親に就いて先ず考える必要がある。そしてその命の親である存在を知らねば成らぬ。そしてその事を事実と知る上で、次に自分の存在に就いて考えるのである。
人は、目的を持たずにこの地上に生まれたのではない。神様に目的(生きる意味)を持たされて、神様の目に尊く高価な者であるとされた上、その人にしか出来ない目的(責務・仕事・目的・嗣業)を与えられて生かされて居る。だから無駄な命は初めから一つも無く、全ての人は神様が与えたその目的に就いて生かされねば成らない。その上で全ての人には自分の行動を決める自由が与えられ、信仰に生かされる事・信仰から離れる事を自ら決める事が出来る。この上で信仰生活を選ぶ事が大事に在る。そしてこの一連の経過も、信仰の鍛錬・成長に繋がるのである。
「彼(イエス様)は、モーセ以上に、大いなる光栄を受けるに相応しい者とされたのである。」(『ヘブル人への手紙』第三章三節)
イエス様はモーセより偉大である。信仰に依り成った律法がモーセなら、その信仰そのものの存在がイエス様である。イエス様の存在無くして、モーセの律法も働きも無かった。全ては、神様がそう成されたからである。そして神様は、全ての人が信仰に立ち帰る事を教え、夫々の人に最良の恵みと愛と慈しみを与え、その為に生かされる土台と環境を与え、その人が信仰に生かされる上で、その人の信仰を成就して下さる。その人をその人が思う以上に愛され、抱擁される上、その人の罪を許し、御自分の下(もと)へ引き寄せて下さるのである。人が自分の力で(自力で)出来る事は、その信仰を掴む事である。神様から初めに与えられたその信仰を享受して、その上で信仰の力と聖霊の働きに依り更に成長させられ、神様に喜ばれる人(息子・娘)に成れるのである。
神様の家は、人の内に在る。人と人の間に在り、十戒の教えを始め、神様が聖書とイエス様を通して人に教えた生き方・信仰生活の大事を守り、その守り続ける心の中に神様の栄光が働く。
全ての人は平等である。夫々の位に就く者であっても対等であり、これは神様に命を与えられた生き物(人)として平等なのであり、その位に眩み、優劣・高低を付けては成らない。そうするのは人の欲望であり、神様から離れようとする罪である。悪魔の罠に陥っては成らない。その為には常に信仰に生かされ、神様とイエス様に一途と成り、自分の言動・生活の在り方(信仰生活の在り方)・これから持とうとする目的が神様の御心に適うものかどうかを問う事が必要である。この事を全ての人は、実は初めから知って居る。神様から教えられて知って居る。一時(いっとき)でも忘れさせるのは欲望であり、神様から人を遠ざけようとする罪である。その罪は悪魔から来て居り、人は心の中に罪を持つ以上その悪魔の誘惑に常に注意する必要があり、そして常に信仰に生かされる為に神様とイエス様の教えに一途と成り、神様に喜ばれる人(息子・娘)に成れる様に努め続けねば成らない。その努めの力は信仰から成り、その信仰は神様が与える。


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