前奏

招詞 詩編102編16〜19節

詩 編 歌 65編 4節

遠き海、地の果て 

開 会 祈祷

主 の 祈り(週報裏面) 

十戒・祈祷(週報裏面)

子ども説教 

子どもと親のカテキズム問 85 

「神さまに心を向ける」

こどもさんびか かみよ、わたしの[旧 60(3,4 節)] 

牧 会 祈祷

讃美歌 187番

聖書

ヨハネによる福音書21章20〜25節(新約 P212)

詩編 119編105〜112節(旧約 P964) 

説教 

「イエスを証しする書物

〜聖書の真価を知る幸い」

宮武輝彦

祈祷

讃美歌 453番

みことばの交読文

ローマ 10章6〜10 節

感謝のささげものと執り成しの祈祷

頌 栄 543番 

祝 祷

報 告


聖書📙

ヨハネによる福音書21章20〜25節

詩編 119編105〜112節

(口語訳聖書)


讃美歌♫〜🌲🔔


(週報裏面)


2024428日 礼拝説教 中心聖句


これらのことについて証しをし、それを書いたのは、この弟子である。わたしたちは、彼の証しが真実であることを知っている。

ヨハネによる福音書2124


わたしの魂は常にわたしの手に置かれています。それでも、あなたの律法を決して忘れません。

詩編119109


はじめに

聖書による訓育は、主イエスの言葉を聞くことから。親しく主の愛を求めたい。

「ペトロが振り向くと」とは、イエスとペトロが、他の弟子たちと少し離れたところにいたことを証しする。そこに「イエスの愛しておられた弟子がついて来るのが見えた」。もちろん、ペトロも「イエスの愛しておられた弟子」の一人。あえて名を伏せて書く理由は、ペトロにイエスがとくに向き合われて「わたしを愛しているか」と問われたことについて、この弟子も無関係ではないことを証しするため。つまり、それは、特定の弟子への問いというよりも、イエスの愛しておられた弟子、皆に妥当する問い。ここで、「この弟子は、あの夕食のとき、イエスの胸もとに寄りかかったまま、『主よ、裏切るのはだれですか』と言った人である」と言われる(ヨハネ1325節)。この弟子は、イエスのそばで重いことを尋ねた。主イエスの召天の後、ペトロは、「ユダはわたしたちの仲間の一人であり、同じ任務を割り当てられていました」(使徒117節)と言う。「めいめいが、自分の重荷を担うべき」(ガラテヤ65節)。ペトロの再献身は、一使徒の、主の教会の一人の献身。

「ペトロは彼を見て」とは、彼の心境から出る言葉をつなぐ。ペトロは、この弟子に何を言うことなく、イエスに「主よ、この人はどうなるのでしょうか」とたずねた。「イエスは言われた。『わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるのか。あなたはわたしに従いなさい。』」先に、主イエスご自身、「ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない」(ヨハネ1314節)と言われた。「互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになる」(ガラテヤ62節)。わたしたちは、めいめいが、自分の重荷を担う。それは、主が分け与えられた重荷ゆえに、互いに担い合うもの。自分の責務を果たすことを、独善的に果たすことはあり得ない。また、他者の責務について、無関心であることもあり得ない。それは、はじめから共同的な責務であり、主の召命に共に応えていくこと(ヨハネ138節「わたしとのかかわり」=「わたしの部分」)。主イエスはこのとき、ペトロが問う心を知っておられ、「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか」と言われた。主のものとされた者たち、一人一人に与えられた召命と生涯がある。「わたしの目にあなたは価高く、貴」い。(イザヤ434節)。ただ、主の贖いの尊さゆえ。

「これらのことについて証しをし、それを書いたのは、この弟子」。「わたしたちは、彼の証しが真実であることを知っている。先の、この書物(福音書)についての言及は、その目的を明らかにした(2030,31節)。ここでは、「イエスのなさったことは、このほかにも、まだたくさんある」と言う。「わたしは思う。その一つ一つを書くならば、世界もその書かれた書物を収めきれないであろう」。人の目は、今、膨大な情報に向かう。しかし、肝心の情報、否、命の言葉に聞く者はだれか。今、福音書、聖書全体の証しする、イエスの名により命を受ける者はさいわい。それは、ほかでもない、あなた自身が、信じる御方。

おわりに

聖書の真価は、救い主キリストにある。「わたしの魂は常にわたしの手」に。苦難の時、「私の心をあなたにささげます。主よ、即座に、まごころから」(カルヴァン)。


(Mynote)🖋


二〇二四年四月二八日(日曜日)、今日も兄弟姉妹共に礼拝を守れる事を神様に感謝する。
(子供メッセージ)
「それでは祈りとは何ですか」
「祈りとは誠の神様に私達の心を向け、神様との交わりの中で、神様とお話しする事です」
聖書に登場するサムエルの事を引用されて居た。サムエルは常に神様にお祈りして居た信仰に厚い人で、或る時、主の神殿で寝て居る時に、神様から語り掛けられ、間違えてそのとき隣に居た人の元に行ったが、「私は呼んでない」と言われる。この事が三度ほど続く。そこで隣人はサムエルに「今度、名前を呼ばれたら、『はい、主よ、ここに居ります』と言いなさい」と言われ、その通りにした。そしてもう一度、神様から名前を呼ばれた時にサムエルは「はい、主よ、ここに居ります」と応え、その後、神様との交わり・会話の時間をとても大事にした。神様からの呼び掛け・語り掛けはこの様に、日常では「人の呼ぶ声」と間違える事もあろう。だから常に信仰に心を鋭くして培い、神様と共に自分が居る事(生かされて居る事)を憶える必要がある。
(公同礼拝)
『ヨハネによる福音書』(第二一章二〇〜二五節)
『詩篇』(第一一九篇一〇五〜一一二節)
この『ヨハネによる福音書』の箇所には、イエス様が三日目に甦られてから岸辺に立ち、弟子達と共に励ましと恵みの食事をした後、また弟子達と共に出掛ける場面が記されてある。イエス様はこの後に天に上げられ、全能の父なる神様の右に座し給えり。弟子達はこのあと一旦イエス様と別れ、『使徒行伝』に見るあの伝道活動に出掛ける。
この時にペテロはイエス様から、
「私に従って来なさい」
と言われた後、自分のこれから来る生涯の事を教えられた上、振り返り、イエス様が愛して居られた弟子の姿を見、
「主(しゅ)よ、この人はどうなのですか?」
と尋ねた。これを受けてイエス様は、
「たとい、私の来る時まで彼が生き残って居る事を、私が望んだとしても、あなたには何の係りがあるか。あなたは、私に従って来なさい」
と改めて嗜め、励ました。
そしてこの『詩篇』の箇所では、信仰に厚いクリスチャンがその信仰の道を歩む時、何があっても神様に付き従い、どんな逆境に遭っても悪しき者の罠に陥っても、神様の諭しから迷い出ず、神様の(主の)の証(教え)が「我が嗣業」であり「我が心の喜び」であるとする。
「私はあなた(神様であり主)の定めを終わり迄、とこしえに守ろうと心を傾けます」
という言葉でその心を表して居る。
詰りこの二つの箇所はクリスチャンにこそ問われる内容であり、信仰の道に歩まされる上で他人を気にせず、とにかく神様に遣わされる自分の在り方と、その在り方に必要な行動・準備をせねば成らない事が示される。
よく人は自分と他人を思い比べ、見比べる事がある。これは特に自分が逆境に在る時に比べ易く、そして得てして逆境ながら、他人を羨む事がある。ペテロはこの時、自分の生涯がどの様に終わるかをイエス様に預言の形で聞かされた。これによりこの時のペテロは未だ、おそらくその死への恐怖と不安が他人より大きかったのではなかろうか。その心の不安から、少し後ろを歩く弟子(これはヨハネと考えられる)を振り向いて見て、自分の運命と比べてその弟子の運命の事が気になり、それで「この人はどうなのですか?」と訊いたかも知れない。
イエス様はヨハネもペテロも含め、全ての弟子、全ての人を愛して居た。イエス様が十字架に付けられた時の事を思い出して見ると良い。イエス様は自分を罵倒し、更に十字架に付けて殺そうとして居る人達の為にさえ、
「父よ、彼らをお許し下さい。彼らは何をして居るのか、わからずに居るのです」(『ルカによる福音書』第二三章三四節)
と祈り、その人達が救われる事を願ったのである。そしてあのイエス様を銀貨で裏切ったイスカリオテのユダでさえ、後に弟子達はこのユダの事を「私達と同じ仲間であり、同じ任務を担って居た人です」と証(あか)し、ユダの裏切りを許容する・理解し許す・その罪を神様に赦して頂ける様に常に祈り願って居た…事が窺われる?

『使徒行伝』(第一章一七節参照)


このイスカリオテのユダを見る場合、自分の信仰と比べて「自分はあのユダよりは立派だ、神様に救われて居る、私は少なくともイエス様をあの様に裏切って居ない…」等と評価し、優越に立つ者が居るかも知れない。実際、後世に於いてこのユダの事を「地獄に落ちて居る」と(人で在りながら)裁定し、その自分を疑わない教会員、或いは牧師まで居る。人は皆、罪人である。故にその罪人である以上、神様が決める事を飛躍して取り決めては成らない。それは傲慢の罪に在ろう。
大事は、クリスチャンであろうがノンクリスチャンであろうが皆、罪に就いて、信仰に就いては他人よりも自分の事を先に考えねば成らない。他人の為にする事は、先ず全ての人が信仰に救われる様に祈る事、その事を絶えず神様に祈る事である。裁く事ではない。
思い比べる事・見比べる事とは常に、延長すると「自分とその他人を比べ、少しでも自分に優位に事を考え運ぶ事」に繋がり易い。そこで自分を反省し落ち込むならまだ良い。その場合はその他人よりも先に自分の信仰の在り方(人生の在り方・生活の仕方)を見詰め、その上で自分に不足を感じ、劣る自分を思い知って悔い改めに成る。信仰に於いて独善的では成らない。イエス様は弟子を始め、全ての人に教えた。「人に仕える者になる様に」と。

『マタイによる福音書』(第二〇章二五〜二八節)


教会に集う者達は皆、共同体であり、手足であり、どれも欠けては成らない者である。神様は全ての人を愛して創って下さった。

『イザヤ書』(第四三章四節参照)


「あなたは私の目に高価で貴(とうと)い」
と神様に言われ、全ての人は創られた。この御言葉はこの時にペテロとヨハネを始め、全ての弟子、全ての人に教えたその恵みと励ましと嗜めに同じである。イエス様はこのとき死にて葬られ、陰府(よみ)に降り、三日目に死人の内より甦り、天に上られる時に弟子達の前に現れ、聖霊と共にこれ等の事を教えた。詰りこのイエス様の教えと励ましと抱擁は、後世に於ける全ての人に同じく降り注ぎ、全ての人の内と外とを救い、賄うのである。


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