前奏

招詞 詩編102編16〜19節

詩 編 歌 65 編 3 節

聖なる主の宮の良きものもて

開 会 祈祷

主 の 祈り(週報裏面) 

十戒・祈祷(週報裏面)

子ども説教 

子どもと親のカテキズム問 84 

「祈りのお手本」

こどもさんびか 

かみよ、わたしの[旧 60(1,2 節)] 

牧 会 祈祷

讃美歌 354番

聖書

ヨハネによる福音書21 章15〜19節(新約 P210)

詩編 23 編 1〜6節(旧約 P941) 

説教 

「わたしの羊を飼いなさい

〜主イエスの愛とわたしたちの召命」

宮武輝彦

祈祷

讃美歌 294番

みことばの交読文 ペトロの手紙一5章9~11節

感謝のささげものと執り成しの祈祷

頌 栄 543番 

祝 祷

報告


聖書📙

ヨハネによる福音書21 章15〜19節

詩編 23 編 1〜6節

(口語訳聖書)


讃美歌〜♫🌲🔔



(週報裏面)


2024421日 礼拝説教 中心聖句


ペトロは、イエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存じです」 

ヨハネによる福音書2117


主はわたしを青草の原に休ませ 憩いの水のほとりに伴い 魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしく わたしを正しい道に導かれる。

詩編232,3


はじめに

事が起こった時、主が共におられると信じるか、否か、その後の道は、いかに。

1

「食事が終わると」とは、復活の後三度目に弟子たちに現れた主イエスが備えられた朝の食事の時間。主イエスは、日々の糧を備えられるお方。「主の祈り」においても、わたしたちは「罪の赦し」を乞い求める前に、「日々の糧」を求めて祈るように教えられる。「聖名の賛美」「御国の到来」「御心の実現」は、日々の生活において、神の栄光をたたえること。「イエスはシモン・ペトロに、『ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか』と言われた。ペトロが、『はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです』と言うと、イエスは、『わたしの小羊を飼いなさい』と言われた」。この問答が、二度繰り返される。受難の時、三度となくイエスを否認したペトロにとって、イエスの問いは、自身の心を疑うもののように受けとめられたかもしれない。しかし、主イエスの問いは、疑いから出たものというよりも、ご自身の愛における再献身を促すものであり、ペトロ自身の献身を根底から支えるもの。ペトロ自身を愛し、養い、導いておられるのは、主ご自身である。とくに、群れを養うために、主の召しを与えられた、牧師たち、長老たちにおいて、大切なことは、絶えず、この主キリストの愛からすべてを始めること。

「三度目にイエスは言われた。『ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。』」このとき、ペトロはこれまでと違う感情を表す。『ペトロは、イエスが三度目も、『わたしを愛しているか』と言われたので、悲しくなった」。三度聞かれたから、悲しくなった、というよりも、ペトロの心情においては、受難の時の痛みは、今日の痛み。主イエスは、否認の前に「しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」(ルカ2232節)と言われた。主イエスは、二度は、「愛するか(アガペー:無償の愛)」と言われ、三度目は、ペトロと同じ言葉で、「愛するか(フィレオ―:友なる愛)」と言われた。ペトロの負い目か、イエスの譲歩か、いずれにしても、わたしたちは、主イエスがわたしたちを愛されたように、愛することが求められている。主イエスご自身が「まことのパン」(ヨハネ632節)である。そして、「良い羊飼い」(ヨハネ1011節)である。じつに、ご自身の群れを養うお方が、ご自身の命を与えてくださったほどに、無条件の愛をもって、愛しておられる。「イエスは言われた。『わたしの羊を飼いなさい』」。

「はっきり言っておく(アーメン、わたしは言う)」と、主イエスは、「ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして言われた」。主イエスは、ペトロの否認を予告された時、すでに、「わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることはできないが、後でついて来ることになる」(ヨハネ1336節)と言われた。十字架の死についていくことのできる人は一人もいない。しかし、死ぬことはキリストと信じる者たちは、主のために自分の十字架を負う道を進むことはできる。それは、聖霊の恵みによる、悔い改めと、日々、新たな献身の道であり、御国に凱旋する道。自分に頼らず、主にすべてを明け渡して歩むとき、わたしたちの献身は、ただ、主の愛と真実のゆえに、確かなものとされる。

おわりに

「主はわたしの羊飼い」への深い信頼を告白し、共に、主の栄光をたたえたい。


(Mynote)🖋

二〇二四年四月二一日(日曜日)、今日も兄弟姉妹共に礼拝を守れる事を神様に感謝する。
(子供メッセージ)
『子供と親のカテキズム 問八四』
「神様が聖書を通して示された祈りの規準はどこにありますか。」
「イエス様が祈りの手本として教えて下さった『主の祈り』の中にあります。」
イエス様は常に天の父なる神様にお祈りをして、全ての人が信仰に依り救われる様に願い続けて居た。その祈りの姿勢と内容をやがて弟子達を始め、イエス様の周りに集った全ての人が学ぶ様になり、個別で神様に祈る様になった。その時に民衆がイエス様に「どの様に祈れば良いか?」と聞いた時、イエス様はこの『主の祈り』の内容をそこに集った全ての人に教え、人々はその『主の祈り』を知り、その様に祈る様になった。この『主の祈り』の内には、神様に祈るべき最も基本的な内容が全て表れて居る。
(公同礼拝)
『ヨハネによる福音書』(第二一章一五〜一九節)
『詩篇』(第二三篇一〜六節)
この『ヨハネによる福音書』の箇所は、イエス様が十字架に掛かられる裁判の時、鶏が鳴く前に三度「私はイエスと言う人を知らない」とペテロがイエス様を否んだ時の事、その悲しみがあった後のエピソードである。
イエス様はこの時、漁に出て居た弟子達を待つ形で、岸辺に居られた。そして食事の支度をそこでして、弟子達が戻って来るのを待って居た。火を起こし、弟子達が(イエス様に教えられて舟の右に網を下ろして)取って来た魚をすぐ食べられる様に、朝の食事の準備をして下さって居た。この食事は、新しい人生を歩もうとする弟子達の為、延いてはその弟子達に教えられ、その福音に依り救われる全ての人達の新しい人生への出発の為の、励ましの為の準備に見える。
その場所は湖畔の様であり、とても静かだった。世間の勢い溢れる喧騒から全く離れた、静寂が漂う空間だった。心を静ませて、自分のこれ迄を振り返り、必要ならば悔い改めがすぐそこで出来る様な、そんな空間だったのだろう。そしてその静かな空間に在るためイエス様とも真面に向き合え、唯一の救い主であるそのイエス様の御前で、自分の今の在り方をも静かに見詰め直せる。
「静かな時間」は心を鋭敏にさせ、落ち着きを与え、また希望を与えるものである。
皆が食事を済ませると、イエス様はペテロに、
「ヨハネの子シモンよ、あなたはこの人達以上に、私を愛するか」
と問うた。ペテロは言った、
「主よ、そうです。私があなたを愛する事は、あなたがご存知です」。
イエス様はペテロに、
「私の小羊を飼いなさい」と言った。そして又もう一度ペテロに言った、
「ヨハネの子シモンよ、私を愛するか」。ペテロはイエス様に言った、
「主よ、そうです。私があなたを愛する事は、あなたがご存知です」。イエス様はペテロに言った、
「私の羊を飼いなさい」。イエス様は三度目にペテロに言った、
「ヨハネの子シモンよ、私を愛するか」。ペテロは「私を愛するか」とイエス様が三度も言われたので、心を痛めてイエス様に言った。
「主よ、あなたは全てをご存知です。私があなたを愛して居る事は、お分かりになって居ます」。イエス様はペテロに言った、
「私の羊を飼いなさい。よくよくあなたに言っておく。あなたが若かった時には、自分で帯を締めて、思いの儘に歩き回って居た。しかし年を取ってからは、自分の手を伸ばす事になろう。そして、他の人があなたに帯を結び付け、行きたくない所へ連れて行くであろう。」
これはペテロがどんな死に方で、神の栄光を現すかを示す為に、お話になったのである。こう話してから、「私に従って来なさい」とイエス様はペテロに言った。
全ての人にとって、イエス様と自分とのパーソナルな関係を感じ、思う事が必要である。ペテロはこの時、それ迄に三度イエス様の事を裏切り否んだ為、イエス様は敢えてその同じ回数である三度ペテロに同じ事を聴き、その罪を初めから許され、更にペテロを励まし、その信仰を強くした。最後に「私に従って来なさい」とイエス様から言われたペテロは、自分が否み裏切ったそのイエス様から許された事を知り、その後、『使徒行伝』に於いて福音活動(自分に与えられた義務・仕事として)に全身全霊を懸けて全うしたのである。この力はペテロ自身ではなく神様から来て居り、それはこの時を以て与えられたイエス様からの愛と恵み、その力に依る所となる。
聖書には、隣人を愛する事など「愛」という言葉が多く出て来る。それではこの「愛」とはどう言うものか?どの様に隣人(人)を愛すれば、聖書が言う「愛」を満たす事が出来るか?それは聖書に在る御言葉に聴き従い、神様が全ての人に教え与えたその愛に就く事で、人間が決めた愛を指さない。この愛に就いては各自が聖書に向き合い、信仰に向き合い、誰かに教えて貰うのではなく、神様と自分の間で信じて考え、信仰が研ぎ澄まされる(生長させられる)内に知らねば成らない。善の心が初めから人に具わって居た様に、その「愛」がどう言うものかを知る感覚も初めから人に具わって居る。この感覚に気付く(この感覚を知る)為には主に静寂が必要であり、神様とイエス様と自分との間で心を静ませ、今の自分の在り方を神様に問わねば成らない。理想の信仰・本来の信仰に自分が歩めて居るか?その事を問う必要が誰にでもある。
ペテロがいざと言う時にイエス様を裏切り、否む事は、イエス様は初めから知って居り、そのペテロが為す一連の全ての事を初めから許して居た。このペテロに訪れたイエス様への裏切り・罪は、全ての人に同じく訪れる罪であり、日常生活にて、全ての人は罪人である為、ペテロと同じくイエス様を否み、無視して、イエス様の傍を離れ、また悔い改め、イエス様の元へ戻り、また裏切り、罪を為し、その繰り返しに生かされて居る。だから悔い改めの連続が人には必要ともなり、全ての人は各自で「自分の罪深さ」に気付き、その内実を知らねば成らない。
クリスチャンには、稼ぎの無い仕事がある。この仕事が神様から用意されて居る。祈る事、福音活動、これ等はクリスチャンにとって立派な仕事であり、譬え人の世で「稼ぎの無い無駄な作業」とその仕事が蔑まれても、信仰に依りその仕事に就く者達には、神様から必要なものが全て与えられる。信仰の成長に依り、その事が事実を以て必ず分かるのである。
悔い改めの連続が必要な人間であるが、全ての人はこのペテロの様に、イエス様に初めから許され、その上で更に信仰に生かされ、福音の為に働く事を教えられる。「私の小羊を飼いなさい」とは、か弱き小羊として在る全てのクリスチャンを率い、その心を励まし、共に信仰に歩み、聖霊に依りその人達を養う事である。その事は信仰に生かされる上で、神様から成される。その福音の為の第一歩、最も基本で大事な仕事が「神様に祈る事」。信じてイエス様が教えた道に歩めば、正しい信仰に必ず生かされ、必要なものは全て備えられる。そしてその人の罪は許されるのである。
(御言葉の交読文)
『ペテロの第一の手紙』(五章九〜一一節)
「信仰にしっかり踏み留まって、悪魔に抵抗しなさい。」
「あなた方と親交を同じくする兄弟達も、この世で同じ苦しみに遭って居るのです。」
「それはあなた方も知って居る通りです。」
「しかし、凡ゆる恵みの源である神、即ち、キリスト・イエスを通してあなた方を永遠の栄光へ招いて下さった神御自身が、」
「暫くの間苦しんであなた方を完全な者とし、強め、力付け、揺らぐ事が無いようにして下さいます。」
「力が世々限り無く神に在ります様に、アァメン。」


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思記〜「始まりの記(き)」より
「だから俺にそのキリストの神様を信じさせてくれよ」と豪語しながら、クリスチャンを試す人が居た。その人に向かって、或るクリスチャンが言う。
『何を言っても無駄でしょう。あなたは口でそう言いながら人の感動を求めて居る。あなたは自分で自分の心を閉ざし、信仰を受け入れず、ただ人の言葉だけを受け入れようとする。それではあなた自身の信仰が成らない。信仰とは、先ず神様と自分との一対一の関係に立ち、自分の劣って居る処を見詰めて知り、これ迄の自分の罪の在り方を反省し、悔い改めて、その心を以て成り立つものだ。あなたは未だ自分に不足を感じて居ない。本気で救いを求めようとして居ない。救いとは信仰に在り、本気で信仰を求めようとして居ない姿と内実に在る。本気で救いを求めれば、譬えどんな小さな声でも、その御言葉は聖霊を以てその心に飛び込む。藁にも縋る思いで助かろうとする時、人はどんなものでも利用して活用し、自分の救いに繋げようとするものだ。その事を既に全ての人は、神様から与えられた本能に依り知って居る。それを無視した上であなたは今、ただ言葉遊びをして居るに過ぎない。譬え前に人が居なくても、本気で救いを求めれば、独房の内にも荒野の内にも神様が傍に居て下さり、その人は神様から直接救いを頂くものである』。
この遣り取りは嘗てイエス様が多くの人から持ち掛けられたその挑戦の様に在り、此処でこのクリスチャンが言った言葉は既に、その相手の心の中にも在るものだった。そしてこの時、そのクリスチャンが言った言葉が、既にその人の救いの糧に成って居た。この先、その人を信仰に依り救いの姿へ変えるのは、聖霊の働きである。