前奏

招詞 詩編102編16〜19節

詩 編 歌 65 1節

シオンよ、汝(な)が神は

開 会 祈祷

主 の 祈り(週報裏面) 

十戒

祈祷(週報裏面)

子ども説教

子どもと親のカテキズム問 82 

「イエスさまにより頼む」

こどもさんびか

よあけのほしが[改86(1,2節)] 

牧 会 祈祷

讃美歌 154番

聖書

ヨハネによる福音書20章24〜29節(新約 P210)

詩編87編1〜7節(旧約 P924) 

説教

「わたしの神、わたしの主よ

〜新しい命と信仰告白」

宮武輝彦

祈祷

讃美歌 526番 

使 徒 信条

聖餐式

感謝のささげものと執り成しの祈祷

頌 栄 543番 

祝 祷

報 告


聖書📙

ヨハネによる福音書20章24〜29節

詩編87編1〜7節

(口語訳聖書)


讃美歌〜♫🌲🔔


(週報裏面)




202447日 礼拝説教 中心聖句

イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」

ヨハネによる福音書2029


「シオンについて、人々は言うであろう この人もかの人もこの都で生まれた、と。」いと高き神御自身がこれを固く定められる。

詩編875


はじめに

主の復活節第二週の今日、「八日目」の復活の主との顕現から真の信仰を問う。

「十二人の一人」とは、人数としては、イスカリオテのユダ一人を欠く11人。十二使徒の一人「ディディモ(双子)と呼ばれるトマス」とは、トマス自身が双子の一人であったのか、あるいは、その性格が、だれかと瓜二つであったのか。相反する性格を顕にする人とも。このトマスが、「イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった」。 そこで、他の弟子たちは、「わたしたちは主を見た」と言った。この時、トマスが言ったことばは、しばしば、「疑い」として理解される。あの十字架から十日、他の弟子たち同様、トマスには不安と恐れ、痛みと絶望があった。トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」と。ならば、わたしたちの信仰は「疑い」のないものか。そうではないのでは。

「さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。」 詩編133編において「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び」と賛美される。主が、「祝福と、とこしえの命」を告げられる日、一人ももれなく、皆(全教会員、地上の全教会のそれぞれの群れ、ときに一同が集うこと)が、一つの礼拝の交わりをささげることは、このうえない喜び。この時、十字架において離散した弟子が再び相集う恵み。また、堕落した全人類からすれば、礼拝は、苦難と試練の中、神の憐れみによる集会。最初に主イエスが弟子たちに現れた日同様、「戸にみな鍵がかけてあった」。そこにイエスが来て真ん中に立ち、『あなたがたに平和』」と言われた」。その時、イエスはトマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい」。

「トマスは彼に答えて言った、『わたしの主、わたしの神』」と。トマスは、あなたを見たので信じます、とは言っていない。むしろ、深い畏れと感動の中で、ただ、イエスを「わたしの主、わたしの神」と呼ぶ。それは、イエスご自身が、まことの神、主であることを信じ、告白する。「御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、聖なる霊によれば、死者の中から復活によって力ある神の子と定められた」「この方が、わたしたちの主イエス・キリスト」(ローマ1章3,4節)。じつに、イエスは、永遠の神の御子でありつつ、罪をほかにしては、まことの人間となられ、復活によって、力ある神の子であると宣言された。神がイエスに与えてくださった子らと同様に、「血と肉を備えられた」イエスは、「死をつかさどる者、つまり悪魔を御自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たちを解放」(ヘブライ2章15節)された。トマスの信仰告白は、その場限りのものではなく、復活の主、勝利の主、生けるキリストにおいてゆるぎないものとされた確信。

イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」。ただ、主の恵みの中に「キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれ」る(ペトロ一1章8節)。

おわりに

詩編87編は、かつての敵が、神から生まれる民に変えられることを預言する。今日続く種々の争いを鎮め、本当の平和が実現する日、この日こそ、復活の主の再臨の日。


(Mynote)🖋
二〇二四年四月七日(日曜日)、今日も兄弟姉妹共に礼拝を守れる事を神様に感謝する。
(子供メッセージ)
『子供と親のカテキズム 問八二』
「あなたは、このような神様の戒めを完全に守れますか。」
「いいえ、それどころか、毎日思いと言葉と行いにおいて神様の戒めを破っています。私達はイエス様によって罪が許されていますが、今も罪を犯してしまいます。ですから、いよいよイエス様により頼み、罪の許しと清めを求めます。」
十戒に就いて。
(公同礼拝)
『ヨハネによる福音書』(第二〇章二四〜二九節)
『詩篇』(第八七篇一〜七節)
この『ヨハネによる福音書』では、イエス様が十字架に付けられた後、三日目に甦られた時に弟子達の真ん中に来られ、そこで皆に祝福を与えた後、ディディモ(デドモ)と呼ばれるトマスに、
「あなたの指をここに付けて、私の手を見なさい。手を伸ばして私の脇に差し入れて見なさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」(『ヨハネによる福音書』第二〇章二七節)
と言われ、それに答えてトマスが、
「我が主よ、我が神よ」
と言ったのを聞き、
「あなたは私を見たので信じたのか。見ないで信ずる者は、幸いである」(『ヨハネによる福音書』第二〇章二九節)
と改めて教えた。
トマスはこの場面の直前で、
「私は、その手にある釘あとを見、私の指をその釘あとに差し入れ、又、私の手をその脇に差し入れて見なければ、決して信じない」(『ヨハネによる福音書』第二〇章二五節)
と他の弟子達に語って聞かせて居た。先週のメッセージからの続きになるが、この世で神様の事を「見ないで信じる者・信じる事」の大事が教えられ、その事が譬えこの時にイエス様の弟子として実際に仕え、付き従って居た(その弟子の内の一人である)トマスでさえ、「見なければ信じない」と言ったのである。後世に於いて聖書を知る者達はこの様なトマスの事を「疑い深いトマス」「合理的なトマス」等と評価して居るが、果して後世の人達も実際この状況に在った時、トマスと同じ様にして居なかったか?
この『ヨハネによる福音書』の箇所は、イエス様が十字架に付けられて死にて葬られ、陰府(よみ)に降り、三日目に甦った直後の事(エピソード)である。この時のトマスが取った言動をただ「疑い深い」「合理的」と決めて良いものか?寧ろ他の弟子達も、マグダラのマリアから「イエス様の復活」の事が知らされた時、このトマスの様に正しく信じ、その通りに理解する事が出来なかったのである。マグダラのマリアでさえ、墓内にイエス様の遺体が無いのを認め、その墓外にイエス様の姿を認めても、始め「庭師か?」と思ってその人をイエス様と分からなかったのである。
これも先週からの学びの続きになるが、この現代にこのエピソードを置き換えて見た時、「一人の人が死んで甦った」と言うその事を、どれだけ人の常識・合理に邪魔されずに信じる事が出来るか?この事の真実と大事、そして何より正しい信仰に依る目と心の在り方が問われるのである。この事は、初めから人の自力のみで解決・説明する事は不可能である。人が生き返るとは、人知・合理・人の常識を超えて居るからである。だからこそ正しい信仰の在り方とその内実(強さ)が問われる。
全ての人は罪人であり、その罪の思考と感情と、その思考と感情から生まれる常識を以て物事を判断する。その思考と常識を超えるものが、神様から同じく人に初めから与えた感覚であり、その感覚には霊性を具える感覚が在り、その内から神様に祈る事から得られる信仰の強さが与えられ、その信仰の強さと正義に依り、イエス様がこの時トマスに教えた「見ないで信じる事」が成り立つのである。
これも先週に学んだが、常に永遠の命と平安と恵みを求め続ける人間でも、いざその永遠の命と平安と恵みが他人を通して目の前にやって来た時、ちょっと待てと人の合理と常識が邪魔をして、その邪魔は人の世間で正当化されるものに成る。これは例えば「UFOを見た・宇宙人を見た」等のオカルト的な事を聞かされた時、それを「見なければ信じない」とするその感覚に似たものになろう。しかしイエス様の死からの復活は先ずその「人の間で作られた噂・超常現象・嘘」とは全く違い、そこにこそ真実を見抜く正しい信仰の目と心とが必要になり、その信仰の目と心が無ければ決して分かり得ぬ、辿り着く事の無い境地と成るものにある。それが中々出来ず、その目と心を持てないのは人である故の人足る弱さの為にあり、人が作り上げた罪の産物と、神様が初めから人に与えた愛と恵みとの間で、迷い惑うからそう成るのである。人は初めから自分に就いて説明し尽せず、自然に就いて説明出来ない。一から物事を創る事は出来るが、無から物事を創る事が出来ない。この「一」とは神様が初めに人に与えた命の土台であり、その土台が在るから全ての人は物事を生み出せ、それを享受し、現代に至る事が出来て居る。この「一」と「無」の違いに、人と神様の違いが既に現れて居る。そしてこの事を全ての人は、その細胞レベルで既に知って居る。普段余り考えないだけであり、又、何か窮地に立たなければ考えない事に在り、普段に目に見える・手に触れる物事に惑わされ、欲望の目と心に邪魔されるから正しい信仰に至れず、足踏みする様に人の常識の檻へ囚われる。
この時イエス様がトマスに教えた「見ないで信じる者は幸いである」とは、「キリストの正しい唯一誠の信仰に生きる事」に在り、無論、他の「人が作り上げた邪教を信じる事」を始め、何でもかでも信じる事を指さない。時に人の常識と合理は、邪教と同じ罪を生み、その罪を実行させるものである。イエス様を十字架に付けた当時の民衆も、誠の救い主であるイエス様の事を人の常識・条理でどうでも信じる事が出来ず、その救い主であるイエス様を狂人・人を惑わす者として罪人に定め、その上で熱狂的に「十字架に付けよ!そして(強盗であり殺人者である)バラバの方を釈放せよ!!」と、時の皇帝、総督の勢いを超える程の姿勢を以て訴えたのだ。これも人の常識が先ず作用して居り、その上で「自分の・自分達の思い通りにしよう」とする欲望が働き、その欲望は罪から生まれ、その罪が何者も寄せ付けない強靭を以て正しい救い主であるイエス様を十字架に付けて殺し、その自分達を正当化しようとして居た。イエス様の教えに反く者は邪教に従う者に在り、この当時にイエス様を十字架に付けた民衆は全て邪教に支配されて居た者達に成る。この事が聖書を通し、既に全ての人に教えられて居る。

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