前奏

招詞 ヨハネの手紙一 1章 5〜7節 

詩編歌 130 4節

望みをいだけ 

開 会 祈祷

主 の 祈り(週報裏面) 

十戒・祈祷(週報裏面)

子ども説教

子どもと親のカテキズム問 81 

「人のしあわせを願う」

こどもさんびか

キリスト・イェスは[改 89(1,2 節)] 

治会長老任職式 

執事任職式

牧 会 祈祷

讃美歌 298番

聖書

ヨハネによる福音書20章19〜23節(新約 P210)

詩編33編4〜11節(旧約 P861)

説教 

「“あなたがたに平和”〜主の復活の日に」

宮武輝彦

祈祷

讃美歌 154番

みことばの交読文

ヨハネの黙示録21章3,4節

聖餐式

感謝のささげものと執り成しの祈祷

頌 栄 543番

祝 祷

報 告


聖書📙

ヨハネによる福音書20章19〜23節

詩編33編4〜11節

(口語訳聖書)


讃美歌〜♫🌲🔔



2024331日 礼拝説教 中心聖句


イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあながたを遣わす。」

ヨハネによる福音書2021


主は国々の計らいを砕き 諸国の民の企てを挫かれる。主の企てはとこしえに立ち 御心の計らいは代々に続く。

詩編3310,11


はじめに

主の復活を喜ぶ今日、わたしたちの喜びの源はどこにあるのか、神の証を学ぶ。

「その日、」とは、十字架につけられたイエスが、週の初めの日に復活された日。マグダラのマリヤから「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちにはわかりません」との報告を受けた、ペトロともう一人の弟子、二人は、墓に駆けつけ、墓の中にイエス(葬られた体)がないことを「見て、信じた」。しかし「イエスは必ず死者の中から復活することになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかった」。

墓の外で泣き悲しむ、「マリア」との呼びかけに、マリアが、「ラボニ」(「先生」という意味)というと、イエスは、「わたしにすがりつくのはよしなさい」と言われた。この言葉は、イエスに触れるマリヤをたしなめたというよりも、この後、「父のもとへ上る」ことを示すため。マリアに命じられことは、「わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る」ことを「わたしの兄弟たちのところに言って」伝えること。マリヤは、イエスに言われたとおりに、その言葉を弟子たちに伝えた。

その日の「夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた(すべての戸が閉ざされていた)。」イエスを盗んだ疑義でとくに十字架にかけることを企てた「エルサレムのユダヤ人たち」が捕らえに来るのではとの恐れも抱いていた。「十一人(その中にトマスはいないが)とその仲間が集まって」(ルカ2433節)、互いの安否を気遣いながら、見たこと、報告されたことについて話し合っていた。「そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた。エマオの家では、「二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった」(ルカ2431節)こともあった。「最後のアダム(イエス・キリスト)は命を与える霊となった」「自然の命の体があり、次いで霊の体がある」(コリント一1545,46節)。主イエスは「天に属する者」(同1547節)として、ご自身の姿を証しされた(同1550節)。「そう言って、手とわき腹とをお見せになった」。十字架の傷跡は、絶望の中にあった弟子たちの心と霊を慰め、復活を確信する道を備えた。「弟子たちは、主を見て喜んだ」。弟子たちは、その心に「復活の」主を受け入れた。「イエスは重ねて言われた。『あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。』

そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい』。命の源でいますお方イエスは、弟子たちに「命の息」を吹き入れられ、「聖霊を取りなさい」と命じられる。それは、聖餐制定において、「パンを取れ」と命じれらる言葉と同様、キリストの体と命を取ること。今、わたしたちは、聖霊の恵みによって、イエスと結び合わされ、その血と体にあずかる。それは、ただ、生けるキリストの臨在において契約の祝福を享受すること。「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される」とは、神が、御子の福音において、罪を赦されることに仕える権威を託されること。聞く者を裁くのは、神ご自身。

おわりに

主イエスは、世界の国々、諸国の主権者であり、真の王。絶望と不信で閉ざされた、心の扉の内側から、聖霊によって心が開かれる時、どの国の人びとも、「主を喜ぶ」。


(Mynote)🖋

二〇二四年三月三一日(日曜日)、今日も兄弟姉妹共に礼拝を守れる事を神様に感謝する。
(子供メッセージ)
『子供と親のカテキズム 問八一』
「第十戒で神様は私達に何を求めて居られますか。」
「神様は、私達に全て必要なものを与えて下さいます。貪りは、この世の物を神とする偶像礼拝です。神様は、私達が、他の人の物をねたまず、自分の持ち物に感謝し、満足し、人の幸せを願う事を求めて居られます。」
イエス様は十字架に掛かられ三日目に甦られた。そして以降、イエス様はずっと私達と共に居て下さる。だから私達はいつでもイエス様と共に居る事を知り、その事を感謝して、神様がイエス様を通して教えた事を守る事が大事になる。私達の心は、私達を創られた神様が収めて下さる。全ての人には善悪の心が具わり、道徳に生かされる事が出来る。その道徳の原点がこの十戒に在り、全ての人はこの十戒に聴き従い、その戒めを守る努力を続ける事が必要である。
(公同礼拝)
『ヨハネによる福音書』(第二〇章一九〜二三節)
『詩篇』(第三三篇四〜一一節)
この『ヨハネによる福音書』では、イエス様が十字架に付けられ、それから三日後に甦り、また弟子達の前に姿を現した時のエピソードが記されて居る。
そしてイエス様は、
「安かれ。父が私を遣わしになった様に、わたしも又あなた方を遣わす」
と言われ、彼等に息を吹き掛けて、
「聖霊を受けよ。あなた方が許す罪は、誰の罪でも許され、あなた方が許さずに置く罪は、そのまま残るであろう」
と教えた。この後にこの時イエス様にこう言われた弟子達は、『使徒行伝』に於いて使徒として、伝道活動を成して行く。ペテロはこの時にそれ迄の罪を悔い改め、イエス様を自分の原点とし、全身全霊を以て伝道の道に歩んだ。トマスはこの時「見ないで信じる者は幸いである」とイエス様に諭され、人の合理にしがみ付こうとする姿勢が正され、信仰の目と心が強められた。そしてヨハネはこの使徒の働きを通し、のちに『ヨハネの黙示録』を記す事になる。
場面を戻し、この甦られたイエス様が弟子達の前にもう一度姿を現した時、弟子達はユダヤ人を恐れ、「捕えられまいか」と自分達が潜む家の戸に全て鍵を掛けて居た。そこへイエス様が入って来られ、皆の真中に立ち、ご自分の手と脇とを彼等にお見せになった。手と脇とは、十字架に付けられた事の印(しるし)であり、甦られた事の印である。この前にトマスは「私は、その手に釘あとを見、私の指をその釘あとに差し入れ、又、私の手をその脇に差し入れて見なければ、決して信じない」と他の弟子に話して居た(『ヨハネによる福音書』第二〇章二四〜二五節)。
先ずイエス様が甦られた事。これを一体、誰が信じるか?現代に置き換えて見ると良い。現代に誰かが死んで、その三日後に甦ったと言って、誰が信じるか?その甦った者が譬え「救い主だ」と前以て何度も言われて居たとして、果して信じるか?ここに神様の正義に立つ信仰の目と心と、聖霊の働きに依る力が必要となる。それは人知を超えた事に在り、人が自力で説明し尽せない事柄に在るからだ。
信仰に生かされるとは、先ず、神様を信じるかどうかに大事が在る。信じるか否か、それに尽きるものに在ろうか。その「信じる」と言う事を、本気で心に留めて考え、信仰に依り理解せねば(神様から教えられなければ)成らないのである。
この時の弟子達ですら、「イエス様が甦った」とマグダラのマリアに聞かされた時、充分に信じる事が出来なかった。そしてそのマリアも墓の中にイエス様の遺体が見付からず、その直後に墓外にイエス様を認めた時、その人がイエス様だと分からなかった(庭師かと思った)。前以て、イエス様に何度もその甦りに就いて教えられて居ても、弟子達はその甦りに就いて正しく理解出来て居らず、トマスの様に充分に信じる事が出来て居なかった。
失われた命、死んだ命、葬られた命が甦った、と言うこの感動。人は誰も永遠の命と安らぎを求める者だが、いざその出来事が他人を通して目の前にやって来ると、人の常識がどうでも邪魔して、その甦りを信じる事が出来ない。なまじ架空や妄想、一時(いっとき)の衝動により本気で信じてみても、それは人の合理で信じるのでなく、感覚的、やはり理想を以てその事を考え、信じようとする。そう、詰りは信じる事に在り、それは人の理解を初めから超えて居る物事に在る。それ故に信仰が不可欠と成る。その上で邪教から常に離れ、正しい信仰を持つ姿勢と内実が必要となる。
キリストの真実のみを、信じるか否かである。此処に信仰の原点が在る。他は無い。イエス様を自分の内に感じ、思い、考え、感覚と全霊を以て知る程に信じる事。この事への努力が全ての人に必要となる。
誰でも命のある者は、その自分の命が何処から来て居るかを本気で問わねば成らない。その心から、神様が初めから人に与えた真実が来るからだ。
神様は、人や動物が地上で生きる事が出来る様に、予め自然やこの大地、宇宙を創造された。全ての人はその命の土台の上で生かされて居る。この命と自然は、初めから人が作ったものではない。この事実からも神様の幹に結び付けられる事、そして信仰に生かされ、新しく生まれ変わる信仰の心と目を持つ事が必要である。


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