(下記プログラムは男山教会のものです)
詩編 110 編 1〜7 節
(口語訳聖書)
讃美歌♫〜🌲🔔
(週報裏面)
2024年3月24日 礼拝説教 中心聖句
そこで皆の者が、「では、お前は神の子か」と言うと、イエスは言われた。「わたしがそうだとは、あなたたちが言っている。」
ルカによる福音書22章70節
あなたの民は進んであなたを迎える 聖なる方の輝きを帯びてあなたの力が現れ 曙の胎から若さの露があなたに降るとき。
詩編110編3節
はじめに
主の受難をとくに覚える今日、御名によって御心を求め祈ることに導かれたい。
1
「夜が明けると、民の長老会、祭司長たちや律法学者たちが集まった。」人が集まるとき、その目的が問われる。問題は合議であれば正しいのではなく、その心。悪魔は、執拗なまでに、人心を動かし、悪事に向かうことを求める。それは、救いの道に反する行動。他の福音書では、夜中の裁判も記される。しかし、裁判自体をこのように性急に昼夜を問わず行うこと自体が違反行為。その夜明けは、イエスを十字架にかける企ての中でその実行を待つ時。彼らは「イエスを最高法院に連れ出して、『お前がメシアなら、そうだと言うがよい』と言った」。はじめからイエスをメシアと認めるつもりのない尋問。彼らにとってイエスがメシアであることは神への冒涜の罪であり、皇帝の敵として訴える口実。『わたしが言っても、あなたたちは決して信じない』『わたしが尋ねても、決して答えない』」と応答された、イエスご自身、彼らの敵意が、ご自身への不信仰の根本にあることを知っておられた。同時に、ご自身の再び来られることと、ご自身の着座を告げる。それは、自ら、まことの統治者にして裁き主であることを示す。しかし、聞く者たちの応答は、「では、お前は神の子か」。イエスの応答も、「わたしがそうだとは、あなたたちが言っている」と言われ、事の本質はまったく相容れないことを明らかにする。これ見よがしに「人々は、『これでもまだ証言が必要だろうか。我々は本人の口から聞いたのだ』」と言った。それは、裁判の正当性を保証するものではなく、あくまでも、自分たちが得たかった口実を得たこと。
2
「そこで、全会衆が立ち上がり、イエスをピラトのもとに連れて行った」。当時、最高法院には、死刑の権限はなく、ローマ総督に訴えた。それは、イエスを処刑するため。「この男はわが民族を惑わし、皇帝に税を納めるのを禁じ、また、自分が王たるメシアだと言っていることが分かりました」と、宗教的理由ではなく、政治的理由で訴える。しかも偽証を重ねることによって。真実は、「民衆は皆、話しを聞こうとして、神殿の境内にいるイエスのもとに朝早くから集まって来た」(21章38節)のであり、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」(20章25節)と命じられ、政治的王ではなく、永遠の神の独り子でいますまことの王、「主メシア」(2章11節)であった。「ピラトはイエスに、『お前がユダヤ人の王なのか』と尋問すると、イエスは、『それは、あなたが言っていることです』とお答えになった」。先の最高法院同様、事の本質は相容れいないゆえに、言葉を相手に返す。
「ピラトは祭司長たちと群衆に、『わたしはこの男に何の罪をみいださない』」と言うも、「彼らは、『この男は、ガリラヤから始めてこの都に至るまで、ユダヤ全土で教えながら、民衆を扇動しているのです』と言い張った」。これを聞いたピラトは敵対していたヘロデのもとに送る。しかし、そこで、イエスは愚弄される。「この日」ピラトとヘロデは「仲がよくなった」。ピラトは、「祭司長たちと議員たちと民衆とを呼び集めて」イエスに罪を認められず、「鞭で懲らしめて釈放」することを提案するが、人々の「十字架につけろ、十字架につけろ」との「要求を入れる決定を下し」、イエスは十字架に引き渡された。
おわりに
イエスの死は、人の目にはただの人の死。しかし、神の御前には「罪なき神の小羊」であり、神の義を満たす唯一完全な犠牲。この唯一のお方のもとに多くの人々が来て救われる。主の召し集められる群れである「教会」は、今日、死から命に至る道を共に進む。
(Mynote)🖋
二〇二四年三月二四日(日曜日)、
(子供メッセージ)
『第十戒は何ですか?』
「隣人の家を貪っては(欲しては)ならない」です。
イエス様は弟子達を始め群衆に「心を騒がせず、
この「人の世」で何が大事か、何に価値があるか、
(公同礼拝)
『ルカによる福音書』(第二二章六六〜七一節と第二三章一〜
『詩篇』(第一一〇篇一〜七節)
この『ルカによる福音書』の箇所は、
今回のメッセージタイトルは「本当の敵とは何か?」である。
このときイエス様が掛けられた裁判は、初めから「
「私はこの人に何の罪も認めない」
と言ったのに拘らず、そこに集った民衆は益々「
裁判長に近い立場に在るピラトが「この人(イエス様)
詰りこの裁判は、初めからイエス様を捕える為の裁判だった。
この場面でイエス様は「お前は救い主か!?」「
「それはあなた達が言って居る事である」
と応え、自分が救い主だとも王だとも応えず、
「私が言っても、あなた方は信じないだろう。又、私が尋ねても、
と「あなたがキリストなら、そう言って貰いたい」
「では、あなたは神の子なのか」
と再び訊き、イエス様が、
「あなた方の言う通りである」
と言うのを聞いて自分達の思い通りの返事が返って来たとして、
「これ以上、何の証拠が要るか。
と自分達の間で裁定を落ち着け、それからピラトの下(もと)
ここでの大事は、イエス様の言動に在る。
イエス様は多くの人民の長老、祭司長達、律法学者達から「
「それなら、カイザルのものはカイザルに、
と当時全ての人が遵守して居た法律に従う事を諭した上で、
人が多数決で物事を決める時、大多数の決めたその取り決めが「確実に正しいもの・正義だ」と言えるか?
このイエス様が掛けられた裁判の時も、これと全く同じ事が起き、
ここでこそ「何が敵なのか?何が正義で守るべきものか?」
そしてイエス様が十字架の上で天に召された時に「
「イエスは彼等に言われた、『もしあなた方が盲人であったなら、
この当時、人々を先導して居た人民の長老、祭司長達、
何が正義か?何が敵なのか?
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