(下記プログラムは男山教会のものです)


前奏
招詞 ヨハネの手紙一 1 章 5〜7 節
詩編歌 130  3節「主を待ち望む」
開 会 祈祷
主 の 祈り(週報裏面) 
十戒・祈祷(週報裏面)
子ども説教
子どもと親のカテキズム問 80 
「十番目のいましめ」
こどもさんびか
いばらのかんむりかぶせられ[改83(1,2節)] 
牧 会 祈祷
讃美歌 243番
聖書
ルカによる福音書 22 章66〜71節,23 章1〜5 節
詩編 110 編 1〜7 節(旧約 P952)
説教  
「ほんとうの敵は何か
〜裁判と尋問の証するもの」
宮武輝彦
祈祷
讃美歌 138番 
みことばの交読文 詩編61編 2~9 節
感謝のささげものと執り成しの祈祷
頌 栄 543番
祝祷
報告

聖書📙
ルカによる福音書 22 章66〜71節,23 章1〜5 節

詩編 110 編 1〜7 節

(口語訳聖書)


讃美歌♫〜🌲🔔


(週報裏面)


2024324日 礼拝説教 中心聖句


そこで皆の者が、「では、お前は神の子か」と言うと、イエスは言われた。「わたしがそうだとは、あなたたちが言っている。」

ルカによる福音書2270


あなたの民は進んであなたを迎える 聖なる方の輝きを帯びてあなたの力が現れ 曙の胎から若さの露があなたに降るとき。

詩編1103


はじめに

主の受難をとくに覚える今日、御名によって御心を求め祈ることに導かれたい。

「夜が明けると、民の長老会、祭司長たちや律法学者たちが集まった。」人が集まるとき、その目的が問われる。問題は合議であれば正しいのではなく、その心。悪魔は、執拗なまでに、人心を動かし、悪事に向かうことを求める。それは、救いの道に反する行動。他の福音書では、夜中の裁判も記される。しかし、裁判自体をこのように性急に昼夜を問わず行うこと自体が違反行為。その夜明けは、イエスを十字架にかける企ての中でその実行を待つ時。彼らは「イエスを最高法院に連れ出して、『お前がメシアなら、そうだと言うがよい』と言った」。はじめからイエスをメシアと認めるつもりのない尋問。彼らにとってイエスがメシアであることは神への冒涜の罪であり、皇帝の敵として訴える口実。『わたしが言っても、あなたたちは決して信じない』『わたしが尋ねても、決して答えない』」と応答された、イエスご自身、彼らの敵意が、ご自身への不信仰の根本にあることを知っておられた。同時に、ご自身の再び来られることと、ご自身の着座を告げる。それは、自ら、まことの統治者にして裁き主であることを示す。しかし、聞く者たちの応答は、「では、お前は神の子か」。イエスの応答も、「わたしがそうだとは、あなたたちが言っている」と言われ、事の本質はまったく相容れないことを明らかにする。これ見よがしに「人々は、『これでもまだ証言が必要だろうか。我々は本人の口から聞いたのだ』」と言った。それは、裁判の正当性を保証するものではなく、あくまでも、自分たちが得たかった口実を得たこと。

「そこで、全会衆が立ち上がり、イエスをピラトのもとに連れて行った」。当時、最高法院には、死刑の権限はなく、ローマ総督に訴えた。それは、イエスを処刑するため。「この男はわが民族を惑わし、皇帝に税を納めるのを禁じ、また、自分が王たるメシアだと言っていることが分かりました」と、宗教的理由ではなく、政治的理由で訴える。しかも偽証を重ねることによって。真実は、「民衆は皆、話しを聞こうとして、神殿の境内にいるイエスのもとに朝早くから集まって来た」(2138節)のであり、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」(2025節)と命じられ、政治的王ではなく、永遠の神の独り子でいますまことの王、「主メシア」(211節)であった。「ピラトはイエスに、『お前がユダヤ人の王なのか』と尋問すると、イエスは、『それは、あなたが言っていることです』とお答えになった」。先の最高法院同様、事の本質は相容れいないゆえに、言葉を相手に返す。

「ピラトは祭司長たちと群衆に、『わたしはこの男に何の罪をみいださない』」と言うも、「彼らは、『この男は、ガリラヤから始めてこの都に至るまで、ユダヤ全土で教えながら、民衆を扇動しているのです』と言い張った」。これを聞いたピラトは敵対していたヘロデのもとに送る。しかし、そこで、イエスは愚弄される。「この日」ピラトとヘロデは「仲がよくなった」。ピラトは、「祭司長たちと議員たちと民衆とを呼び集めて」イエスに罪を認められず、「鞭で懲らしめて釈放」することを提案するが、人々の「十字架につけろ、十字架につけろ」との「要求を入れる決定を下し」、イエスは十字架に引き渡された。

おわりに

イエスの死は、人の目にはただの人の死。しかし、神の御前には「罪なき神の小羊」であり、神の義を満たす唯一完全な犠牲。この唯一のお方のもとに多くの人々が来て救われる。主の召し集められる群れである「教会」は、今日、死から命に至る道を共に進む。


(Mynote)🖋

二〇二四年三月二四日(日曜日)、今日も兄弟姉妹共に礼拝を守れる事を神様に感謝する。
(子供メッセージ)
『第十戒は何ですか?』
「隣人の家を貪っては(欲しては)ならない」です。
イエス様は弟子達を始め群衆に「心を騒がせず、静ませて居なさい」と言われ、「天国には私の父があなた方の為に必要な恵みを全て用意されて居る。それ以上に欲する事は罪になる」と言われて、全ての人を真実の下(もと)で慰めた。そこで弟子のトマスが「では私達にも主のお父様を見せて下さい、そうすれば私達もあなたと同じ様に天の父を信じる事が出来ます」と応えた。でもイエス様は「私を見た者は、天に居られる誠の父を見たのだ」と教え、イエス様の存在そのものが神様を見、知った事と同じになると諭した。
この「人の世」で何が大事か、何に価値があるか、その点を信仰に於いて悩まず、間違わず、確実に神様とイエス様の下(もと)で見定めなければ成らない。そうしなければ、神様が本来の恵みに於いて創られた「人間」が成らないのである。
(公同礼拝)
『ルカによる福音書』(第二二章六六〜七一節と第二三章一〜五節)
『詩篇』(第一一〇篇一〜七節)
この『ルカによる福音書』の箇所は、イエス様が総督ピラトの下(もと)で捕えられ、十字架に付けられる迄の最初の段階を踏み始めた場面である。公に引き連れられて、公衆の前で正式な法により裁かれ、その法の下(もと)でイエス様が罪人として裁かれる場面。
今回のメッセージタイトルは「本当の敵とは何か?」である。この箇所を含め、この人間の世界では常にこの言葉が問われ、常に信仰の目…即ち「神様の目から見て正義とは何か?罪に辿らせる敵とは何か?」を問わねば成らない。
このときイエス様が掛けられた裁判は、初めから「イエス様を救い主と認めず、民衆を惑わす狂人・罪人として、イエス様を極刑に仕立て上げる為の裁判」であり、これは多くの人の欲望・罪が為して居た事に在る。裁判とは「善悪を識別し、正義と悪義とを見分け、その人が本当に悪の側に立つ人だと分かれば、その時点で初めてその人を裁く対象にする」事を目的とする。この裁判に於ける本来の道理を無視した上で、イエス様を突き出した民衆は「初めからイエス様を裁く対象にして裁判に掛けた」その姿勢に在った。その証拠に裁定を下す権利を持つ総督ピラトが、
「私はこの人に何の罪も認めない」
と言ったのに拘らず、そこに集った民衆は益々「イエスを十字架に付けよ!」そして「(盗賊且つ人殺しである)バラバの方を釈放せよ!!」と頑なに言い募ってその姿勢を強めたのである(『ルカによる福音書』第二三章一七〜一九節)。


裁判長に近い立場に在るピラトが「この人(イエス様)に何の罪も見出せない」として居るのに、民衆の勢いでイエス様を十字架に付けた事は「罪の為す業」所謂る「悪魔の為す業」に在る(事が分かる)。
詰りこの裁判は、初めからイエス様を捕える為の裁判だった。
この場面でイエス様は「お前は救い主か!?」「お前はキリストなのか!?」「王なのか?」と問われた時、
「それはあなた達が言って居る事である」
と応え、自分が救い主だとも王だとも応えず、もう相手にしなかった姿勢に見て良い。自分の弁護・弁明をしなかったのだ。この前にイエス様は、
「私が言っても、あなた方は信じないだろう。又、私が尋ねても、答えないだろう。しかし、人の子は今からのち、全能の神の右に座するであろう」(『ルカによる福音書』第二二章六七〜六九節)

と「あなたがキリストなら、そう言って貰いたい」とした人民の長老、祭司長達、律法学者達の言葉に対し、こう答えられた。これを聞き、人民の長老、祭司長達、律法学者達は、
「では、あなたは神の子なのか」
と再び訊き、イエス様が、
「あなた方の言う通りである」
と言うのを聞いて自分達の思い通りの返事が返って来たとして、
「これ以上、何の証拠が要るか。我々は直接彼の口から聞いたのだから」
と自分達の間で裁定を落ち着け、それからピラトの下(もと)へ引き連れたのだ。
ここでの大事は、イエス様の言動に在る。
イエス様は多くの人民の長老、祭司長達、律法学者達から「民衆を惑わす狂人・罪人」として罪状を着せられた。しかしイエス様はこれ迄にも、
「それなら、カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい」
と当時全ての人が遵守して居た法律に従う事を諭した上で、神様のものと人のものとをはっきり区別する知恵をも教えた(『ルカによる福音書』第二〇章二五〜二六節)。


人が多数決で物事を決める時、大多数の決めたその取り決めが「確実に正しいもの・正義だ」と言えるか?この事は既に多くの人が複数人で或いは独りでも思い考えて来た事にあろうが、得てしてそこでの正しい言動(その答え)を知るには至って居らず、やはり多数決で決められた「正義とされた物事」を認め、それを逆に疑う事・反する事が罪に在るとする。その傾向が未だに強く在る。
このイエス様が掛けられた裁判の時も、これと全く同じ事が起き、ピラトは他の皇帝から認められる為に、多くの民衆から憎まれず、同じく認められ崇められる為に、「この人に何の罪も見出せない」とした正直を封殺し、大多数の民衆に従った経過・結末に在る。詰り民衆を恐れ、本来許したかった者を許さなかったのである(『ルカによる福音書』第二三章二〇〜二五節)。
ここでこそ「何が敵なのか?何が正義で守るべきものか?」を真剣に問い、そこでの真実を求め、その真実を知らねば成らないのである。その「知る力」は信仰から成り、人の自力のみの内からは決して生まれない。全ての人は初めから罪人であり、欲深な者であり、過ちを為す生き物に在るからだ。
そしてイエス様が十字架の上で天に召された時に「聖所の幕が真ん中から裂けた」とは、それまで人の手により正義が作られ、その作られた正義が支配する聖所(現在で言えば教会として良い)に「偽信仰者により認められた者だけしか入れなかった規則」が打ち破られ、全ての人が集える聖所の姿を示す。詰りここでは、人が人を教会に入れず、神様からの救いを多くの人に分け与えなかった…事が示される。人が人を、信仰から遠ざけて居たのである。
「イエスは彼等に言われた、『もしあなた方が盲人であったなら、罪は無かったであろう。しかし、今あなた方が「見える」と言い張るところに、あなた方の罪がある』。」(『ヨハネによる福音書』第九章四一節)


この当時、人々を先導して居た人民の長老、祭司長達、律法学者達は、その多くが傲慢だった。その罪の内に盲目で在りながらそれに気付かず、「真実が見える」と言い張りながら人々を惑わし続け、その人々を内と外から支配して居た。この「人の傾向」は今でも続いて見られる。
何が正義か?何が敵なのか?これへの答えは信仰に依ってしか得られず、傲慢、或いは無知で居続けようとする者には、邪教の強さが生まれるのである。イエス様はその全ての人達の為にも十字架に掛かられ、その罪の悔い改めの機会を与えて下さった。この様になさったのは神様であり、詰りイエス様はその神様の御計画に従い、十字架に掛かられる迄の経過を歩まれた。だからこそ自分を弁護せず、「あなたの御心の儘に成る様に」と神様に祈られ、その定めから逃れなかった。人の罪を許す為、人を罪から救う為、その信仰に依る救い、悔い改めから成る救いの機会を全ての人に与える為に、十字架に付けられ、神様がイエス様に託したその計画を成就した。全ての人の救いの為に。


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