前奏

招詞 ヨハネの手紙一 1 章 5〜7節

詩編歌 130 2節

われらの罪を

開 会 祈祷

主 の 祈り(週報裏面) 

十戒・祈祷(週報裏面)

子ども説教

子どもと親のカテキズム問 79 

「神さまは真実な方」

こどもさんびか

わたしたちのつみのため[旧 38(1,2 節)] 

牧 会 祈祷

讃美歌 121番

聖書

ルカによる福音書22章 35〜46節(新約 P155)

イザヤ書51章 4〜8節(旧約 P1146)

説教 

「ほんとうの備え〜不変のものは何か」

宮武輝彦

祈祷

讃美歌 316番 

みことばの交読文

詩編74編 16〜21 節

感謝のささげものと執り成しの祈祷

頌 栄 543番

祝祷

報告


聖書📙

ルカによる福音書22章 35〜46 節

イザヤ書51章 4〜8節

(口語訳聖書)


讃美歌〜♫🌲🔔


(週報裏面)


2024317日 礼拝説教 中心聖句


「言っておくが、『その人は犯罪人の一人に数えられた』と書かれていることは、わたしの身に必ず実現する。わたしにかかわることは実現するから…」

ルカによる福音書2237


わたしの正義は近く、わたしの救いは現れ わたしの腕は諸国の民を裁く。島々はわたしに望みをおき わたしの腕を待ち臨む。

イザヤ書515


はじめに

世界の国々の平和を祈り求める今日、受難の主ご自身の言葉と忠実に聞き従う。

「それから、イエスは使徒たち(彼ら)に言われた。『財布も袋も履物も持たせずに』とは、十字架を前にする受難の時、弟子たちから離れることへの注意を払う言葉。以前、主ご自身がすべてを満たすので、何も持たずに行くように命じ、遣わすどこかの家の人から必要なものをすべて与えることを約束された(104,5節)。しかし、今や、多くの困難に直面する時、多くの人と同じように、その場で役立つものを備えるように命じられた。それは、後、奇跡的なことが起こることに期待したり依存したししないように注意を促す。使徒たちは、「何も(不足は)ありませんでした」と答えた。「しかし今は、財布のある者は、それを持って行きなさい」と主イエスは命じられる。以前と異なるのは、「剣のない者は、服を売ってそれを買いなさい」との命令。悪しき時代の中、「剣を買う」とは、第一に、霊的な武具を指すが、物的手段も無視されない。「一度は死んだが、見よ、世々限りなく生きて、死と陰符の鍵を持って」(ヨハネ黙示録118節)おられる主は、「わたしは金持ちだ。満ち足りている。何一つ必要な物はない」と言っている者に、主は「自分が惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者であることが分かっていない」(同317節)と警告される。そこで勧められることは「裕福になるように火で精錬された金をわたしから買うがよい。裸の恥をさらさないように、身に着ける白い衣を買い、また、見えるようになるために、目に塗る薬を買うがよい」(同18節)ということ。使徒たちも、十字架を前に、敵の手に主が捕らえられた時には、皆主を見捨てて逃げ、ペトロも三度となく主を否む。彼らは「主よ、剣なら、このとおりここに二振りあります」と言い、主の真意を理解していない。

「『その人は犯罪人の一人に数えられた』と書かれていること」とは、預言者によってあらかじめ告げられた言葉(イザヤ5317節)。主イエスは、このことが、「わたしの身に必ず実現する」「わたしにかかわることは実現するから」と言われ、ご自身が、「犯罪人の一人に数えられる」ことによって、「罪人たちの身代わりの死を遂げることを予告された。それは、法的に確定された事件であり、公然と執行される。事実、そのようになった(ルカ2332,33節)。「犯罪人」の多くは「剣」に相当するものを持つ。また、官憲も「剣」に相当するものを持つ。処刑もまた、ある道具・手段によって執行される。十字架刑は、生身の人間を木の上にはりつけにして吊るし上げる酷い処刑。主イエスは、実に、油注がれたお方、キリスト(まことの王)でありながら、その御力によって敵を滅ぼすことを良しとされず、かえって、ご自身自ら「犯罪人の一人に数えられた」ほどに、罪人の身代わりの死を遂げ、ただ一度唯一完全な犠牲をささげることによって、完全な贖いとなられ、神の義を満たされた(ウェストミンスター小教理問25)。

「誘惑に陥らないように祈りなさい」との、主の警告は、神の武具を身に就けよ、ということ(エフェソ613節)。主イエスご自身は、「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください」と、ご自身に与えられた苦難を負われた。主のための苦難は恵み。

おわりに

「わたしの正義(義)は近い」と言われる「主」は、ご自身の「救い」を現し、ご自身の「腕」といういわば「道具」をもって「諸国の民を裁く」。十字架刑をもって、「主の裁き」とされた、まことの神、主のもとに来て罪赦され、神と和解する人は、幸い。


(Mynote)🖋

二〇二四年三月一七日(日曜日)、今日も兄弟姉妹共に礼拝を守る事が許され、神様に感謝する。
(子供メッセージ)
『子供と親のカテキズム 問七九』
「第九戒で、神様は私達に何を求めて居られますか。」
「神様は真実な方ですから、私達にも真実をお求めになります。悪い噂を流したり、嘘をついて、友達を傷付けてはいけません。いつも愛の内に真実を語りましょう。」
この世には様々な律法があり、その内には人が自分達の為に自ら作り上げたものもある。しかし神様は最初から人が守るべき律法として十戒を人々に与えた。その十戒の内に「あなたは隣人に就いて偽証しては成らない」と在り、これを守る事はこの地上だけでなく、天に徳を積む事に成る。地上では「それが今は必要だ」として隣人を嘘により評価し、貶めて、その結果、その隣人を裁く事がある。何時(いつ)でも神様の前で正しい人で在る為に、この地上で人々が取り決めた間違い(所謂る罪)を為しては成らない。人の事を思う前に神様の事を思う。神様の事を思い行動すればそれは隣人を愛する事に繋がり、その知恵と知識と行動力を、その人は神様から与えられる。正しい信仰の目を持つ大事が教えられる。
(公同礼拝)
『ルカによる福音書』(第二二章三五〜四六節)
『イザヤ書』(第五一章四〜八節)
この『ルカによる福音書』の箇所では、以前に弟子達が福音に遣わされ、使徒として働かされた時を前提に、もう一度遣わされる時の事が記される。その一度目に遣わされた時の事を回想する様に、イエス様は弟子達にこう言った。
「私が財布も袋も靴も持たせずにあなた方を遣わした時、何か困った事があったか」と。そこで弟子達は皆、
「いいえ、何もありませんでした」
と答えた。詰り先の福音宣教活動のとき弟子達は、イエス様に言われた通り、本当に何も持たずに(福音を伝えるべき)各地に赴き、その行く先々で必要なものが神様から用意されて居た。その行った先に住む人々から食物が分けられ、住む場所が与えられ、聞く耳と心が与えられた。これ等の「人から与えられたもの」は全て、神様が先に用意され、弟子達に与えて居たものである。
しかし今日のこの箇所でイエス様は、
「しかし今は、財布のある者は、それを持って行け。袋も同様に持って行け。又、剣(つるぎ)の無い者は、自分の上着を売って、それを買うがよい。あなた方に言うが、『彼は罪人の一人に数えられた』と記して在る事は、私の身に成し遂げられねば成らない。そうだ、私に関わる事は成就して居る」
と、その前の福音宣教活動の時とは真逆の事を言われた。この「彼」とはイエス様の事である。
ここで知恵と知識が必要であり、何故イエス様がその様に「財布を持って行け」「剣(つるぎ)を持って行け」と前の時とはまるで矛盾する事を言われたか?
これは旧約から新約を通して、神様から人に与えられる約束が成就する上で矛盾せず、その成就を第一とする姿勢の一貫を弟子達に示した(教えた)に過ぎない。でもこの時は旧約の内容が人々の世界に浸透して居り、この新約に於けるイエス様の教えを殆ど(全てとして良いかも知れない)の弟子は理解出来なかった。唯それでも自分の主(しゅ)と仰ぐイエス様の言われた事を信じ、その通りに行動したのである。ここに「知恵と知識が必要である」と記したが、この「知恵と知識」は信仰から成る。正しく神様から教えられた事を信じその通りに行動すれば、その知恵と知識は時に応じた形(時を駆ける形)で現れ、そうした全ての人の信仰の糧に成る。
そしてこの「旧約から新約に掛けての約束の成就を第一とした姿勢」は文字通り、旧約で預言された「『彼は罪人の一人に数えられた』と記して在る事は、私の身に成し遂げられねば成らない。そうだ、私に関わる事は成就して居る」事をそのまま示す事に向く。詰りイエス様が人として、この地上で「罪人として捕えられ十字架に掛けられる事の成就」の為である。
群衆に突き出されてイエス様を捕えた当時のローマ総督・ピラトは、それでもイエス様を取り調べた時、
「あなた方が、この人を引き取って十字架に付けるがよい。私は、彼には何の罪も見出せない」(『ヨハネによる福音書』第一九章六節)

と応えて居る。詰りそれだけイエス様は、当時の律法に於いても罪が見出される事無く、磔刑に値する者に無かった。この「人の律法」に於いて罪人とされる為、イエス様は敢えて弟子達に武装させ、人の世の律法とそれによる正義、そしてその律法と正義に従う全ての人の敵と成る為、この様に(矛盾する様な事を弟子達に)実行させた。そうではなかったか?
しかし又この『ルカによる福音書』に明記される「剣(つるぎ)」(武器)を示す言葉も、その効果はどれ程かと言えば、完璧な攻撃力に無く防御にも成らない。
今でも世の中では戦争が起き、様々な武器や防具が開発され使用されて居る。しかしどれも理想を叶える為の完璧には無く、例えばイスラエルのアイアンドームも時により簡単に打ち破られ、又、核兵器にしてもそれを使う者と使われる者にとって両刃(もろは)の物に成る。詰り武器(それ)を使う人間の側の問題なのだ。全ての人は完璧な者に無い。皆、罪人であり、過ちを犯す者である。
振り返ってこの『ルカによる福音書』では、
「弟子達が言った、『主よ、ごらんなさい、ここに剣(つるぎ)が二振りございます』。イエスは言われた、『それでよい』」
と在り、これから降り掛かろうとする世間の刃(やいば)に対し、たった「剣(つるぎ)二振り」でイエス様は「良い」とされて居る。詰り本当にその剣(つるぎ)を武具として戦うのではなく、飽くまで見せ掛けとし、特定の者達にとって捕え易い条件を持つ者に模す為ではなかったか。イエス様とその弟子達を捕えようとする者達にとって見れば、それだけの武装に見える形で「イエス様を捕えるには充分である」とする理由が立つ。その事の為にイエス様はこの時、弟子達に剣(つるぎ)二振りを持たせ、様々な小物を買える様にする(これも見せ掛ける)為の財布も持たせ、二度目の福音宣教へと弟子達を送ったのではないか。
イエス様はその剣(つるぎ)を以て「人々と戦え」とは一切教えて居ない。イエス様はこの後に自分達に何が起こるかも全て知って居られた。天の父なる神様から教えられ知って居た。ペテロに言われた様に(鶏が鳴く前のエピソード)、全ての弟子が自分を見捨てて逃げる事さえ知って居た。
その様に剣(つるぎ)二振りを持ち、多少の金を持った弟子達は、イエス様がゲッセマネで捕えられ、その後ピラトの下(もと)で苦しみを受け、十字架に付けられたその前後を以て、イエス様を見捨て全員が逃げ去ったのだ。更にそのゲッセマネでイエス様が捕えられた時、ペテロが剣(つるぎ)を抜いてイエス様を捕えようとする大祭司の僕(しもべ)に斬り掛かり、その人の耳を切り落とした。でもイエス様はその人の耳を癒され、ペテロを叱り、剣(つるぎ)を納める様に言い、
「父が私に下さった杯(さかずき)は、飲むべきではないか」
と励まし嗜めた(『ヨハネによる福音書』第一八章九〜一一節)。

詰りイエス様はこれ等の事を知って居られた。初めから多くの人に捕えられ、十字架に付けられる事を知って居られた。この事…イエス様(自分)がその人々の中で「罪人」として捕えられ、極刑である磔刑に処される事…の為だけに、自分をその人々に罪人と認めさせねば成らなかった。

この『ルカによる福音書』の箇所では詰り、
「罪が一つも無いイエス様が罪人として人の世で裁かれ、十字架に付けられ三日目に甦り、罪人として生まれた全ての人の罪を救い給うその土台と契機が神様に依り成就される迄の経過」
が記されて居る。
信仰とは、目に見えるもの・手に触れるものを頼りにせず、常に神様から全ての人に与えられた聖霊の働きに依り成長し、神様の前で理想の形に成就する。武具や見た目のものに頼らず、その霊的な働きが何処に向くか?神様が人に何を求めて居られるか?その事を問い、信仰に依り知らされ、そのとき分からなくてもただ主に従う一途の心が必要である。

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