前奏
招詞
詩編86編6~11節
頌 栄 たたえよ、主の民[こ改25]
開 会 祈祷主 の 祈り(週報裏面)
十戒・祈祷(週報裏面)
子ども説教
子どもと親のカテキズム問74
「七番目のいましめ」
こどもさんびか
キリストのへいわ[改34(へいわ)]
牧 会 祈祷
讃 美 歌 260番下
聖書
使徒言行録19章8~10節(新約P251)
イザヤ書26章1~6節 (旧約P1099)
説 教 
「主の言葉に聞く~堅固な思いと平和の守り」
宮武輝彦
祈 祷
讃 美 歌 338番
みことばの交読文 詩編85編8~14節 
感謝のささげものと執り成しの祈祷
頌 栄 543番
祝 祷
報 告

聖書📙
使徒言行録19章8~10節

イザヤ書26章1~6節

(口語訳聖書)


讃美歌〜♫🌲🔔


(週報裏面)


2024211日 礼拝説教 中心聖句


パウロは会堂に入って、三ヶ月間、神の国のことについて大胆に論じ、人々を説得しようとした。

使徒言行録198


堅固な思いを、あなたは平和に守られる あなたに信頼するゆえに、平和に。どこまでも主に信頼せよ、主はとこしえの岩。

イザヤ書263,4


はじめに

教会と国家の主イエス・キリストの支配の中に、主の言葉が語られた事を学ぶ。

「(それから、)パウロは(その)会堂に入っ」た。エフェソに来て、初めて入ったというよりも、これまで同様、ユダヤ人の会堂から始めて、落ち着いて、福音を語り出したと言う事。使徒パウロは、聖霊が降る結果を十二人の弟子たちに見、「三か月間、神の国のことについて大胆に論じ、人々を説得しようとした」。「神の国のこと」とは、「パウロが彼らの上に手を置くと、聖霊が降り、その人たちは「異言」にしろ、「預言」にしろ、実際に、十字架に上げられた、イエスについての福音を告げる者が起こされたことと重なる。主イエスご自身、洗礼者ヨハネについて「預言者以上の者」と言い、「『見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの前に道を準備させよう』と書いてあるのは、この人のことだ」と言われ、「およそ女から生まれた者のうち、ヨハネより偉大な者はいない。しかし、神の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大」である」(ルカ72628節)と言われた。「神の国」とは、じつに、キリストの王国の実現であり、そこでは、最も小さな者が、洗礼者ヨハネより偉大な者とされる。それは、十字架に上げられた、主キリスト、御子の福音に生きる故。「知恵の正しさは、それに従うすべての人によって証明される」(同35節)

あるユダヤ人たちは、洗礼者ヨハネにも、イエスの宣教にも、心の耳を傾けなかった。

「しかしある者たちが、かたくなで信じようとはせず、会衆の前でこの道を非難した」。「この道」とは、たんなる教えではなく、主イエスを信じ、主に従う道を歩む者たち。使徒ペトロは、「多くの人が彼ら(偽預言者たち)のみだらな楽しみ(放縦)を見倣っています。彼らのために真理の道はそしられる」(二ペトロ22節)と戒めた。結局のところ、彼らは「わたしたちの神の恵みをみだらな楽しみに変え」「唯一の支配者であり、わたしたちの主イエス・キリストを否定」(ユダ4節)する、罪を自覚していない者たち。使徒パウロ自身、かつては「この道に従う者」を迫害した。それは、十字架に上げられた、キリストを否定し、迫害する事(使徒92,4節)。主を信じ「真理の道」を歩む者こそ、真の弟子。

「会衆の前で」あしざまに悪口を言うことに現れたとき、使徒は、「彼らのもとから離れ、弟子たちをも退かせ」た。それは、彼らの悪い影響から弟子たちを引き離したということ。

「(パウロは)ティラノという講堂で毎日論じていた」。それは、公に、神の国のこと、その到来について、主キリストの、御子の福音を教えたということ。「ティラノ」は、ギリシャ名。しかし、ユダヤ人がギリシャ名を名乗ることもあった。多分、よく知られた講堂の所有者で哲学者たちに講堂を貸していた人、あるいは、彼自身講演者であったか、ユダヤ人の学校で教えていた人か。「このようなことが二年も続いたので、アジア州に住む者は、ユダヤ人であれギリシア人であれ、だれもが主の言葉を聞くことになった」。こうして、福音は遠くにも近くにも広まった。福音は、神の国の到来を告げ、真理の道、命、主キリストに生きることによって証しされ、主の言葉を伝える。復活の主は、聖霊によって、絶えず使徒パウロと聞く者たちを励まし、ご自身の栄光をたたえる道を備えられた。

おわりに

真の預言者イザヤは、「堅固な都」の「平和」を告げる。実に、真理を守る事こそ、正しい人の態度。「どこまでも主に信頼せよ、主こそはとこしえの岩」と歌う人こそ。


(Mynote)🖋
二〇二四年二月一一日(日曜日)、今日も兄弟姉妹と共に礼拝を守れる事を神様に感謝する。
(子供メッセージ)
『子供と親のカテキズム 問七四』
「第七戒は何ですか。」
「姦淫してはならない」です。
イエス様は、全ての罪人の為に十字架に掛かって下さり、その罪が許される契機・信仰の土台を与えて下さった。神様がイエス様を通して、全ての人を愛される上でその最大の恵み、慰めを与えて下さったのである。
だからこそ全ての人は、その神様の愛に応えねば成らず、十戒の定めを守る努力をし続け、その内の「姦淫してはならない」と言うその教えも守り続けようとする努力が必要である。詰り「信仰に於いて正しい結婚」をする事が大事で、不義・欲望・罪の下(もと)で結婚やそれに繋がる恋愛をしては成らない、という事である。
イエス様の存在により、また神様が初めからアブラハムの時代からも全ての人を愛して下さり、一つの家族として皆を互いに「兄弟姉妹」と呼ぶ。だからその愛する兄弟姉妹を、不義の愛で汚しては成らない。清い愛で愛し合う事が大事に在る。
(公同礼拝)
『使徒行伝』(第一九章八〜一〇節)
『イザヤ書』(第二六章一〜六節)
両箇所とも、神様の御前に在る全ての人の在り方、信仰の在り方、正しいクリスチャンの在り方に就いて記されて居る。
パウロは全ての人に福音を伝えようとしたが、まだ自分の名前が「サウロ」だった時(詰り信仰に依り救われる前のパウロは)、キリストを迫害し、教会に集う者達を悉く非難して居た。そのパウロがいざ会堂に入って福音(メッセージ)を説いても、それを聴く特定の者達は頑なにパウロを信じず、非難し、迫害した。
そこでパウロは(何を言ってもどうしようもなかったので)頑なである彼等から離れ、それまで自分に付いて来て居た弟子達からも離れた。そしてツラノ(ティラノ)の講堂で毎日論じた。それが二年間も続いたので、アジアに住んで居る者は、ユダヤ人もギリシャ人も皆、主(しゅ)の言葉を聴いた。
『イザヤ書』に在るこの箇所は、まるでこのパウロの時を預言して居る様である。パウロは過去に罪を犯して居た者だから、それまでずっと真面目に信仰生活を過ごして来た、会堂に居た彼等(パウロを非難した頑なな彼等)にとって信仰に於いて小さき者となり、足蹴(あしげ)にすべき者となる。少なくとも、人の世間ではそう成る事が多い。詰りこのとき会堂に居た者達は、信仰に厚い者達ばかりと見られ、パウロを多少なり憎んで居た。
しかしこの時「信仰とは何処から来るものか?」を真剣に考えねば成らない。この点は人間だけの主観・感情・感覚によるものでなく、神様に依り、聖霊の働きに依り理解する必要がある。イエス様はこの信仰に就いて、
「バプテスマのヨハネより、天の国に居る一番小さな者の方が偉大である」
と弟子達を始め、全ての人に教えた。パウロは「ヨハネのバプテスマにより信仰を持った人」に対し、「そのヨハネ自らが語って居たイエス・キリストに依るバプテスマを受け信仰に入る事が大事と教えた」事をずっと宣べ伝えて居た。会堂に居た者達はヨハネのバプテスマにより信仰生活に入った者達が殆どとすれば、その会堂に居た彼等にとっては「ヨハネこそ最も偉大な者だ」と成る。即ちパウロ達が信じて居た「イエス様こそが誠の救い主、最も偉大な救い主である事」と対立するものになり、間違った信仰と正しい信仰とが、そのまま対峙する形になる。
頑なとは、人の感情がそうさせて居る場合が多く(全てと言って良い)、人間の尺度で物事を考え、その考えにより他人を裁く事に繋がる事がある。このパウロと会堂に集って居た頑なな彼等の関係にせよ、この感情により一方が高みに立ち、一方が低みに立った(立たされた)図と成る。
「主は高き所、聳え立つ町に住む者を引き下ろし、これを伏させ、これを地に伏させて、塵(ちり)に返される。こうして足で踏まれ、貧しい者の足で踏まれ、乏しい者はその上を歩む。」(『イザヤ書』第二六章五〜六節)
この御言葉がこの場面でも生きて来る。「高き所、聳え立つ町に住む者」とは人の世間に認められ、立派だとされ、弱者・乏しい他人を戒め、非難出来、蹂躙出来る者達とされる。詰りこのとき会堂に居た、頑なな彼等の事である。彼等は「自分達の信仰こそ正しく、パウロの信仰は間違って居る」と真っ向から否定し非難して来た。
信仰に於いて「何が正しいか(何が正義か?)」を本気で問わねば成らない。そして頑なとは「今の自分の信仰がもう大丈夫!これ以上進歩する事は無く、全きものとして完熟して居る」と信じて居る者達の姿勢に在り、これはただ神様の御前で傲慢と成る。
全ての人の信仰は、正しい時もあれば間違う時もある事を常に知らねば成らない。常に知らないから他人を非難し攻撃する。その非難し攻撃する姿勢を保つから頑なと成る。それはその信仰を保った時間が長ければ長い程、正比例して、頑なの度合いも増し加わるものに成り易い。神様から見れば、全ての人の信仰の度合いは、五十歩百歩にはなかろうか。人は罪から生まれて居る事もあり、容易く間違う事があるからだ。罪を犯す事が在るからである。罪が無く、常に正しい人はイエス様だけである。そしてイエス様は人としてお生まれになりながら、神様の一人子であり、全ての人(罪人)の唯一の救い主である。この真実(こと)を全ての人は常に心に留め、知らねば成らない。
規則正しい生活、道徳に正しい生活、常識的な生活などは、普通に人の世の中で誰もが認める事にある。これはクリスチャンでなくても人は知って居り、常に守って居り、その事を知識として保って居る。常識の由来もそこにあろう。
けれど大事は、人の間の常識・正義に無く、人と信仰の間の常識・正義に在る。これを多くの人が間違い易く、又「人の間の常識・正義を守り実践する事」しか知らない為それを大事とし、それ以外の教え(信仰を含め)は全て邪教の教えとして無視したり、場合によれば非難・攻撃する対象にする。キリストの時代・歴史を反省しても、その繰り返しに在るとして良い。どれだけ多くの人が、信仰を信仰と認めない事実があるか…が分かる。この点で信仰を持つ事が全ての人にとって、本当に大事に成るのである。この事は人に聴く上で、各自が自分を創造して下さった神様と一対一に成り、そこで神様に直接聴かねば成らない。これが祈りに在る。神様に教えられた事に向けて行動する事に在る。

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