前奏

招詞 詩編86編6~11節

頌 栄

たたえよ、主の民[こ改25]

開 会 祈祷

主 の 祈り(週報裏面)

十戒・祈祷(週報裏面)

子ども説教

子どもと親のカテキズム問73

「いのちを大切にする」

こどもさんびか

きょうはひかりが[改2(5節)] 

牧 会 祈祷

讃 美 歌 262番

聖書

使徒言行録19章1~7節(新約P251)

ヨエル書2章12~17節 (旧約P1423)

説 教 

「主イエスの名による洗礼

~聖霊を受けた者の悔い改め」

宮武輝彦

祈 祷

讃 美 歌 199番

使徒信条 

聖餐式

感謝のささげものと執り成しの祈祷

頌 栄 543番

祝 祷

報 告


聖書📙

使徒言行録19章1~7節


ヨエル書2章12~17節


讃美歌〜♫🌲🔔


(週報裏面)


202424日 礼拝説教 中心聖句


彼らに、「信仰に入ったとき、聖霊を受けましたか」と言うと、彼らは、「いいえ、聖霊があるかとどうか、聞いたこともありません」と言った。

使徒言行録192


主は言われる。「今こそ、心からわたしに立ち帰れ 断食し、泣き悲しんで。衣を裂くのではなく お前たちの心を引き裂け。」あなたたちの神、主に立ち帰れ。

ヨエル書212,13


はじめに

信教の自由を守る日を前にし、今日を生きる教会の、信仰の基礎を確かめたい。

「アポロがコリントにいたとき(いるようになったとき)のこと」とは、以前、アレクからエフェソに来たとき、その望みのとおり、アカイア州のコリントにいるようになったときのこと。アポロは、「ヨハネの洗礼のことしか知らなかった」が、アポロの教えを聞いたプリスキラとアキラが、「彼を招いて、もっと正確に(より注意深く)神の道を説明した」。それは、彼が、「ヨハネの洗礼のことしか知らなかった」から。アポロは、兄弟の励ましと配慮の中、コリントに行き、「彼が聖書に基づいて、メシア[キリスト]はイエスであると公然と立証し、激しい語調でユダヤ人を説き伏せた。

 このとき、「パウロは、内陸の地方を通ってエフェソに下って来て、何人かの(ある)弟子(たち)に出会」った。パウロ自身、アポロが来る前に、プリスキラとアキラと来て、エフェソに滞在し、「ユダヤ人と論じ合った」(18章)。このように、「キリストはイエスである」との論証は、ユダヤ人に向き合う時の必須事項。再びエフェソに来た、パウロが、「彼らに『信仰に入ったとき、聖霊を受けましたか』と問うとき、パウロは、ある者たちを信仰者として受け入れながら、聖霊の賜物を受けることの大切さに心を向ける。

あらためて、「パウロが、『それなら、どんな洗礼を受けたのですか』と、問いかけたた。それは、先に受けた洗礼を儀式的に意味づけようとしているのではなく、むしろ、その内実を問うもの。「そこで、パウロは言った。『ヨハネは、自分の後から来る方、つまりイエスを信じるようにと、民に告げて、悔い改めの洗礼を授けた』」。これは、洗礼者ヨハネ自身が、証したお方、イエスと同じ(ヨハネ1章)。このお方が、十字架に上げられ、その死から三日目に復活し、弟子たちに現れ、天に上げられたお方。このお方の約束のとおり、エルサレムにいて祈りの心を合わせていた、使徒たちと兄弟姉妹たちの上に、聖霊が降った(2章)。「人々はこれを聞いて主イエスの名によって洗礼を受けた」。この洗礼は、いわゆる再洗礼ではなく、むしろ、一度の主イエスの命じる洗礼を受けた、ということ。聖書において、浸礼と滴礼の区別は、浸礼のみを正しい洗礼と正当化する理由はない。洗礼の効力は、執行者自身にも、洗礼の様式にも、帰されるものでなく、あくまでも、主キリストと真の神の主権的な召命(選び)にある。「この聖霊は、わたしたちが御国を受け継ぐための保証であり」「わたしたちは贖われて神のものとなり、神の栄光をたたえる」(エフェソ114節)。洗礼は、祈りと献身に至る道であり、そこで問われることは、誠実な信仰であり、また、敬虔な礼拝生活(ペトロ一321節、ローマ63,4節)。

「パウロが彼らの上に手を置くと、聖霊が降り」とは、パウロの手に何かの力があったのではなく、祈りの心を表した時、聖霊が降ったのを見た。それは、「その人たちが異言を話したり、預言をしたりした」から。「この人たちは、皆で十二人ほどであった」。この人数は、「十二人」から想起される弟子の数も何かの規準を示すものではなく、あくまで、結果の人数「約十二人」であったことを知る。つまり、新たな一団の形成を強調していない。

おわりに

主の復活と昇天において洗礼が命じられた(マタイ28章)。預言者ヨエルの声も、心からの悔い改めを叫ぶ。聖霊の結ぶ実りを、聖餐の時、今日、改めて、確かめたい。


(Mynote)🖋


二〇二四年二月四日(日曜日)、今日も兄弟姉妹共に礼拝出来る事を、神様に感謝する。
(子供メッセージ)
『子供と親のカテキズム 問七三』
「第六戒で、神様は私達に何を求めて居られますか。」
「神様は、人間をご自分の形に似せて造られたので、他の人の命も、自分の命も大切にする事を求めて居られます。人を憎む事、無視する事、意地悪をする事が心の中の人殺しです。私達は、自分の様に他の人をも愛します。」
大事な事は、心の中の在り方であり、全ての人はこの心の中の自分がどう在るか、その事を常に考え、見て捉え、その在り方を信仰に沿う様に成されなければならない。
一匹の羊を探す為に、イエス様は他の囲いの中に居る羊をその儘に置き、その一匹の羊の為に囲いを出、探しに行かれるそのエピソードが引用された。イエス様はその一匹の羊を探し出す為に「私は命をも捨てます」と言われ、その通りに十字架に掛かられ、全ての罪人を救われる事を約束された。これは神様の御計画に依りその様に成され、力が与えられ、そのイエス様を通して全ての罪人が救われる事が約束されたのである。この「囲いを外れた一匹の羊」とは、今でもこの世に彷徨う罪人の事である。
(公同礼拝)
『使徒行伝』(第一九章一〜七節)
『ヨエル書』(第二章一二〜一七節)
この両箇所では、人の洗礼と、信仰に依る救いに就いて記されて居る。パウロがエペソ地方に来た時のエピソードである。この時アポロはコリントに居り、パウロはそのエペソ地方で或る弟子達と会った。
そしてパウロはその弟子達に、
「あなた方は、信仰に入った時に、聖霊を受けたのか」と尋ねた。それを聞いた弟子達はパウロに、
「いいえ、聖霊なるものがある事さえ、聞いた事がありません」と答えた。そこでパウロは、
「では、誰の名に依ってバプテスマを受けたのか」と更に尋(き)いた。すると彼等は、
「ヨハネの名によるバプテスマを受けました」と答えた。そこでパウロは力強く彼等に言った。
「ヨハネは悔い改めのバプテスマを授けたが、それによって、自分のあとに来る方、即ち、イエスを信じる様に、人々に勧めたのである」と。
そして弟子達(人々)はこれを聞いて、主イエスの名に依るバプテスマを受けた。そして、パウロが彼等の上に手を置くと、聖霊が彼等に降(くだ)り、それから彼等は異言を語ったり、預言をしたりし出した。その人達は皆で十二人程であった。
『ヨエル書』では、人々が今こそ神様に立ち返り、礼拝する心・その信仰を取り戻す事が強く勧められ、その方法と経過に就いて記されて在る様だ。
この二つの箇所は、全ての人にとって必要な信仰の在り方が記されて在り、洗礼に依り人がどう変わるのか?現実に於いてその洗礼を受けてどう在るか?その辺りの事を教えて居る。
信仰生活に入ると、その全ての人に「信仰と現実との闘い」がやって来るものである。現実には様々な神を人は造り上げ、その複数の神々への偽の信仰により正しい信仰が曲げられ、その正しい信仰への姿勢が変えられたり、妨げられたりする。先ずこの様に、現実に於ける様々な邪教との闘いを始め、偶像礼拝に寄らない事の闘いが在り、その邪教に心酔し、その邪教を心酔する人の主観や感情との闘いがある。これにより殉教したクリスチャンも居り、イエス様も、この偶像に崇拝し悪魔の側に立たされた人達との闘いを経て、その一時(いっとき)でも悪魔の側に立つ人々に十字架に付けられ、殺された。そしてイエス様は神様の御計画に依り三日目に死人の内より甦り、天に上り、全能の父なる神様の右に座し、全ての罪人がその死(罪)の内から救われる事を示された。これが全ての罪人にとって最大の恵みと、神様からイエス様を通して人に与えられた大きな愛と慈しみの現れに在る。
信仰に入ってからもこの様に現実との闘いが在り、この闘いはクリスチャン同士の間でも起こる。偶像の存在がクリスチャン生活の中、クリスチャン同士の間、教会同士の間にも生まれる事があり、これは人の主観や感情が為して居るもので、信仰生活に入ったからとて「必ず救われる」とは必ずしも言えない。信仰と救いとはセットで考えられる事もあるが、その信仰から逸れて邪教に靡き、信仰を捨てる者達も在る。だから信仰がそのまま救いと成るのではなく、同時に、洗礼を受けたからもう救われた…として、そこで信仰生活が終わりとは成らない。寧ろ洗礼を受け、聖霊の働きを知り、信仰生活に入った事から、本当の信仰生活に於ける悪魔との闘いが始まると言える。
信仰、洗礼、聖霊の働きに依る生活は、その信仰生活が始まる切っ掛けに成る事はあるが、救いに繋がる直接の切っ掛けには成らないのである。だから大事は、信仰生活に入ったからこそ、その時から改めて神様が人に教えた正しい信仰生活の姿とその内実を知らされ、その信仰生活から離れない様に、常に自分を悔い改めながら自分の信仰が強められて行かねば成らないのである。
教会によれば(或る教会に集うクリスチャンによれば)、その洗礼の在り方により「救われる・救われない」を人の主観・知識・感情で勝手に決め付ける事がある。手で水を振り掛けて行う滴礼、全身を水に浸して行う浸礼等と区別もあり、その区別により「この方法でなければ人は救われない」と本気で信じ、それに逆らう者達を悉く蹂躙し迫害し、或いは殺傷する事さえ過去にはあった(過去にあると言う事は現在にも在ると言う事である)。
これは全て「信仰の儀式(かたち)だけに囚われたクリスチャンの姿」に在り、本当の信仰、正しい信仰には無い。寧ろ洗礼とはその内実が大事に在り、神様の前でその人が心から悔い改め、イエス様の復活を信じ、神様を信じる事に大事が在る。この様な勘違い、人の主観・知識・感情による不正の信仰の在り方が罷り通る人の世の中である為、全ての人は必ず神様の幹に繋がらなければ正しい信仰に与る事が出来ないと、いつでも知らねば成らないのである。決して信仰は儀式(かたち)には無く、神様とその人との一対一で成される救いに在り、内実の救いに在り、霊的な救いの内に在る。この大事をすぐに忘れてしまうのが人間であり、だから余計に注意が必要である。
バプテスマのヨハネはその洗礼を、川で浸礼の形で成して居た。この事を覚えて多くの人は「このヨハネがしたのと同じく、浸礼の形で洗礼を成さねば人は救われない」と本気で信じ、他の方法を全て除外する。しかし洗礼は儀式に無く、その内実にこそ大事が在る。その洗礼の本質を見失った姿は邪教の習慣を身に付け、それを他人に強要する事がある。これをどうでも避けねば成らない。でなければ、人が人を裁く事に繋がるからだ。「人を裁くな。自分が裁かれない為である。あなた方が裁くその裁きで、自分も裁かれ、あなた方の量(はか)るそのはかりで、自分にも量り与えられるであろう」(『マタイによる福音書』第七章一〜二節)この言葉に反する事にもなる。



しかし「この儀式は良い、この儀式は駄目」等と決め付ける厳粛な彼等は、人目にとても信仰熱心に見える事がある。熱心であるからこそ他者の信仰の在り方にも熱心となり、許す者と許さない者とに分けるのである。しかしその熱心の行方を見据えねば成らない。そこに救いがあるか否か、その法(その時の自分の在り方と内実)が、本当に神様が人に教えたその在り方・内実か?…と言う事をこそ本気で先ず問わねば成らず、その上で熱心に成るのが良い。でなければ、その熱意は曲がった方へ生き、気付かぬ内に邪教(間違った教え)を造り上げ、それに没頭し、心酔し、その熱意が頑なと成り、その頑なで人を裁く事に成るからだ。頑なとは、この熱意に生まれる事が多い。
だから常に悔い改めの心を大事とし、信仰の鑑に自分を映し、その全ての事を神様の下(もと)で為す事(成される事)が、全ての人にとって大事と成る。


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