(本日は箕面聖書めぐみ教会と、丸山牧師によるメッセージもアップして居ります)


前奏
招詞 ヨハネの黙示録4章11節
頌 栄
たたえよ、主の民[こ改 25] 
開 会 祈祷
主 の 祈り(週報裏面) 
十戒・祈祷(週報裏面)
子ども説教
子どもと親のカテキズム問 71
「人を心からうやまう」
こどもさんびか
きょうはひかりが[改 2(3 節)] 
牧 会 祈祷
讃美歌 354番
聖書
イザヤ書40章1~10節 (旧約 P1123)
ヨハネによる福音書1章19~28節 (新約 P163)
説 教 
「慰めよ〜人びとの心に語りかけられた約束」
宮武輝彦
祈祷
讃美歌 534番
みことばの交読文
詩編 90 編 14~17 節
感謝のささげものと執り成しの祈祷
頌 栄 543番
祝 祷
報 告

聖書📙
イザヤ書40章1~10節

ヨハネによる福音書1章19~28節


(口語訳聖書)


讃美歌〜♫🌲🔔

2024121日 礼拝説教 中心聖句


慰めよ、わたしの民を慰めよと あなたたちの神は言われる。エルサレムの心に語りかけ 彼女に呼びかけよ 苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と。

イザヤ書401.2


ヨハネは、預言者イザヤの言葉を用いて言った。「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐにせよ』と。」

ヨハネによる福音書123


はじめに

内外の苦難の中にある人びとを覚えつつ、今日、主の慰めの声に聞き従いたい。

「慰めよ」とは、悲しみと患難の中で、事を悔やみ、新たな平安に至る道を備える「悔い改めさせよ」と同じ言葉。かつてノアの物語において、主なる神は、深く「後悔し(「慰め」と同じ言葉、悲しみ)、心を痛められた」。「しかし、ノア(慰め、休息という名)は主の好意を得た」(創世記65,6,8)。このように、神の裁きから赦しに至る道には、主の深い後悔と憐れみがある。患難の日、それは、静かな日、否、真の静けさを知る機会でもある。「静まって、わたしこそ神であることを知れ」(詩編4610節(口語訳))と命じられる主は、神の言葉を告げる者たちに、神の御前に静まって、まったき平安の中に憩う道をここに備えられた。「慰めと、わたしの民を慰めよと あなたたちの神は言われる」。ここに繰り返される慰めは、神がご自身のものとして愛された人びとに向かう。慰めの根拠は、神自らご自身の民の間に立てられた契約と誓い。ノアが主のために祭壇を築いたとき、「主は宥めの香りをかいで、御心に言われた。『人に対して大地を呪うことは二度とすまい』」(創世記821節)。ならば、今日の患難をどう理解するのか、それは、神の民にとっては、主の名を証しする機会であり、忍耐の時、終末的警告(ルカ21719節)。そこで、必要不可欠なことは、慰めの言葉、真の福音を語り続けること。

「エルサレムの心に語りかけ」よ、とは、慰めの言葉は、「心の深み、内奥、内なる権威」に呼びかけるものであることを示す。主の慰めは、今日、わたしたちへの恵みと平安、真の癒やしとして語りかけられねばならない。「エルサレムの心」とは、捕囚の民にとっては、嘆き、悲しみ、憂い、失望、落胆した心。ならば、その心の癒やしと回復は、契約の神でいます、「主」への礼拝を回復(エズラ記3章、ネヘミヤ記8章)。「彼女に呼びかけよ 苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と。罪のすべてに倍する報いを主の御手から受けた、と。」神自ら、今日、礼拝を回復する、ご自身の召し集められた群れでいます(エクレシア)「教会」の心に、福音によって慰めを与えてくださる。それは、罪の赦しの福音であり、神への礼拝の心を回復する、命に至る悔い改め。ここに、真の平和と静けさがある。

「呼びかける声がある」「呼びかけよと、声は言う」と、主の声が告げられる日の到来がここに預言さえる。それは、「主のために、荒れ野に道を備え わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ」と命じられる主を証しする声。洗礼者ヨハネは、この預言者イザヤの言葉を用いて、自ら「呼びかける声」として、主の召命を果たした。「あなたはメシアでも、エリヤでも、また、あの預言者でもないのに、なぜ、洗礼を授けるのですか」とファリサイ派に属していた人たちは、いぶかった。それは、ユダヤ人への洗礼は、不要とされていたから。しかし、彼らは、エルサレムの汚れを忘れていた。神の裁きを忘れ、それを軽んじ、神殿礼拝をむなしいものとしていた。ならば、洗礼者ヨハネの声は、当然ながら、「悔い改めよ」との、「慰め」の声でなければならなかった。異邦人同様、罪を悔い改めねばならない、ユダヤ人への洗礼は、罪の赦しの福音を告げる日の到来を告げた。

おわりに・主イエス・キリストが、十字架の上で負われた「神の裁き」を認めるとき、わたしたちは、真の慰めと癒やしの道を歩み始める。その心をもって常に礼拝生活に励みたい。


(Mynote)🖋

二〇二四年一月二一日(日曜日)、今日も兄弟姉妹共に礼拝を守れる事を神様に感謝する。
(子供メッセージ)
『子供と親のカテキズム 問七一』
「第五戒で、神様は私達に何を求めて居られますか。」
「神様のみを崇め、聖書に従い、父と母を心から敬い、先生や目上の人達を尊敬し、友達や年下の人達も大切にする事を求めて居られます。神様は、その様な人達に祝福を豊かにお与えになると、特別に約束して下さって居ます。」
神様とモーセの関係、交流に就いて引用されて居た。また神様とアブラハムとの関係を参考にさせ、神様と人々との間に立てた契約の事、イスラエルを救いに導く事を約束され、神様の側に立つ人々が全てその働きに遣わされた事・これから遣わされる事を教え、神様はご自分が唯一の神様であり、人々を救う者である事を教えた。
(公同礼拝)
『イザヤ書』(第四〇章一〜一〇節)
『ヨハネによる福音書』(第一章一九〜二八節)
先ずこの『ヨハネによる福音書』の箇所では、バプテスマのヨハネの事が記されて居る。そのヨハネが宣教活動と共に、多くの人に洗礼を授けて居た事に就いて、ユダヤ人達が、エルサレムから祭司達やレビ人達をヨハネの元に遣わして、「あなたはどなたですか?」と問わせた。そこでヨハネは彼等に、
「私はキリストではない」と告白した。これはその時ヨハネが立てた証である。即ち、彼は告白してそれを否まなかった。
そこで又、ユダヤ人達に遣わされた人達はヨハネに、
「それでは、どなたなのですか、あなたはエリヤ(預言者)ですか」と問うた。それに応えてヨハネは、
「いや、そうではない」と言い、それを承けてユダヤ人達に遣わされた人達は「では、あの預言者ですか」と又問う。するとヨハネは「いいえ」と答え、次第に業を煮やす姿勢でユダヤ人達に遣わされた人達は、
「あなたはどなたですか。私達を遣わした人々に、答を持って行ける様にして頂きたい。あなた自身を誰だと考えるのか」と少し迫る様に訊き直した。
そこでヨハネは、
「私は、預言者イザヤが言った様に、『主の道を真っ直ぐにせよと荒野(あらの)で呼ばわる者の声』である」と答えた。
この様なやり取りがあり、ユダヤ人達に遣わされた人達はおそらく、ヨハネがこの時言った言葉をそのままユダヤ人達に伝えた。
全てのメッセージ(説教)は慰めから成る。聖書に記されて在る事も、全ての人を慰めるものである。先週はノアの記録(物語)を学んだ。神様は人々を創られた事を、深く後悔された。この「後悔」も実は慰めと同じである。神様の愛は、アブラハムの時に示された。ソドムとゴモラの時である。そのソドムとゴモラの街に、譬え十人の信仰に正しい人が居れば、神様は「その街を滅ぼさなかった」と約束された。だが居なかった。人の罪とは、これ程のものである。これは人間の罪の度合いを表して居る様であり、人が神様にどれほど反く者か、信仰に依る教えを悉く破る者か、どうしようもない罪の中に生きる者かが記されて居る(『創世記』第一八章一六〜三三節迄を参照の事)


我々は聖書を読む時、信仰に歩もうとする時、メッセージを聞こうとする時に、必ず慰めや癒しを求める。しかし聖書を読む時、信仰に歩もうとする時、メッセージを聞こうとする時には、正しく神様の事を捉えて理解し、聖書を読み、信仰に歩まされ、メッセージを聴かねば成らない。詰り、自分中心の考え・主観・感覚で聖書の内容を全て理解せず、神様が人々に求めて居られる事、教える事を受け留め、理解せねば成らない。ノアの時、人々は神様の教えに悉く反き、その後まったく反省する事無く悔い改めず、その姿勢の儘で生活して居た。この事を神様は悲しまれ、怒られた。そして後悔された。そこで人の歴史を終わらせる事も神様には当然出来た。でもそうなされなかった。そのどうしようもない罪人である人間をそれでも愛し、その人間の歴史をノアの時から改めて続けられたのである。そもそも神様との約束、神様が教えた事を悉く破り、神様に反き、罪を犯し続けて居た人々に、神様に対して文句を言える資格など初めから無い。その人間の為に、神様は一人子であるイエス様を救い主として与えた。ここ迄なされた。にも拘らず人間は、その自分達の為に与えられたイエス様を蹂躙し、結局、十字架に付けて殺したのである。救いを殺したのは人間である。それからイエス様は神様の御計画通りに三日目に死人の内より甦り、罪人が人として死(罪)の内から救われる事、新しい命を得て甦る事を約束された。信仰に生かされる上、全ての人がそうして罪による最大の罰である死から、甦る事が約束されたのである。
静まって、神様の御言葉を聴く事が大事に在る。そして神様が神様足る方である事を知る。この事を先ず心に留めねば成らない。
阪神震災の時、男山教会の牧師と神学生を始め、改革派の各教会の牧師や教会員達は被災地へ行き、ボランティア活動(奉仕活動)をすると共に、福音活動もする事が許された。その時は何のメッセージの準備もして居らず(する事が出来ず)、ただ静まって、礼拝堂に被災者、ボランティアメンバー共に集まり、神様の前で礼拝を捧げた。その時には窮地に立たされた人々を始め、思って居たより多くの人が礼拝堂に集まった。その中には当然ノンクリスチャンも多く居たが、クリスチャン・ノンクリスチャン関係無く神様の前に静かに佇み、やがては神様と自分との一対一の縦の関係に成る事に気付き、その環境・姿勢の儘で祈り願った。その時に慰められ、信仰の道に歩まされた人達も多かった。これはその場に居た人達(集った人達)にだけ分かる事であり、世間に対しては「静かな物事(そう言う事があったと主張出来ない物事)である」とも言える。神様と自分との間にも心の静けさが在り、人の世間にも、個人と世間との間に静けさが在る。その静けさの中で多くの人(全ての人として良い)は、自分を考え、吟味し、やがて神様と自分の存在の事に就いて考え始める。
祈り。その祈りの言葉を、何処に向かって話すのか、また福音を成す(福音が成される)時にも何に向けて語り掛けるのか、が大事に成る。福音はその人の心に語り掛けるものであり、その語られた人が信仰に救われる事は神様の御力と聖霊の働きの内に在る。
書店に置かれてあるミリオンセラーの本には、自己啓発もの、予言系のもの、癒し系のもの等が多い。又そのとき自分を楽しませる漫画も矢鱈と多い。聖書は「ベストセラー」と言われながらも、余りちゃんと読まれてないのかも知れない(これはクリスチャンにも問われる上で)。人々が何に救いを求めて居るか?本当に苦労や窮地に陥った時、自分を救い得る永遠の救いを何に求めるか?この救いを求める先に何が在るか、そこに信仰と正しい救いが必要に成る。
人は、多少落ち込んで居る時の方が落ち着くものである。それは目に見えるもの・手に触れられるもの、即ちこの世で価値が有るもの・人間が作り出した救いに目と心を向けず、流行に左右される気力を持つ事も無く、真の救いに目と心を向ける機会に恵まれるからだ。落ち込んだ時、人は或る時を以てこの世に絶望する事がある。その絶望の内に、神様が初めから全ての人に与えて下さった救いに気付く事があり(これが信仰に寄る事で神様の御力と聖霊の働きに依る)、その時以降、人の生来・本来の姿・立場に立ち返り、神様の前で自分の何足るかを知らされる上、神様と自分との関係を知る(関係に気付く)事がある。そのとき大抵周りに人が居らず、静かなものである。一番の悩みは他人に言えない、自分の全てを他人は理解出来ない(これは親でも理解出来ない)、連続した救いを人間は与える事が出来ない、これ等の事に窮地に陥った事により気付き思い知らされる事があり、その連続の経験により、信仰がその人に改めて備えられ、その人の信仰が正しく育てられる事がある。心の生長は静かなものである。音を立てずに育ち、他人に知られる事なく、世間で囃される事なく育てられる。
常に、人にとって大事は何処に在るか?真実の救いは何か?その救いが何処から来て居るか?全ての人は窮地に陥った時、また自分の寿命を思う時に、必ずそれ等の事を自ずと考え、思い知らされる。この「人の在り方」を思う上、一分一秒毎に自分が存在させられ、此処に生かされて居る事実を知り、その自分の命を与えた神様と自分との関係を知る事が大事に成る。その事を気付かせ知らせるものは、神様の御力、聖霊の働き、正しい信仰に依る救いである。神様が人に初めから与えて下さるものは慰めである。その慰めである神様の教えに反かず従い、神様に愛される人に少しでも近付ける様に自分でも努力し、その救いを唯一生ける誠の神様に求めねば成らない。そうすれば必ず全ての人は神様に慰められ、この「人の地上」だけでは考えられない、信じられない程の恵みと救いに気付ける。 


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Table Caffe〜🌲🏕☕️


(お暇な時にぜひどうぞ☕️😊)



思記〜『始まりの記(き)』より


戦争や国防。もっと単純である。欲しいからその国を奪うのだ。その為に武器を使う。その武器を得る為に金を得る。核兵器はその武器の王様である。これを独裁者が実践し立証して居る。歴史の事や経済関連等の事、国際世論等は関係無い。それ等は後付けであり、戦争と国防を支配し、世界を動かすのは今の人間の欲望である。明日食う為に、人は歴史等を持って来ない。目の前に食糧が在ればそれを持って来る。これが欲望の動きだ。皆、過去など見ずに今を見て居る。そして未来を見る。後付けの理由に左右されては成らない。そして聖書に在る事は過去の事に無く、現行の事に在り、未来の事に在る。