前奏

招詞 ヨハネの手紙一4章9,10節

頌 栄 たたえよ、主の民[こ改25]

開 会 祈祷

主 の 祈り(週報裏面)

十戒・祈祷(週報裏面)

子ども説教

子どもと親のカテキズム問68

「四番目のいましめ」

こどもさんびか

まぶねのなかに[改79(4節)]

牧 会 祈祷

讃 美 歌 124番

聖書

ルカによる福音書2章22~38節(新約P103)

イザヤ書60章1~7節(旧約P1159)

説 教 

「幼子イエスを腕に抱き

~主の平安と救いの中で」

宮武輝彦

祈 祷

讃 美 歌 532番

みことばの交読文

詩編33編18~22節

感謝のささげものと執り成しの祈祷

頌 栄 542番

祝 祷

報 告


聖書📙

ルカによる福音書2章22~38節

イザヤ書60章1~7節

(口語訳聖書)


讃美歌〜♫🌲🔔


(週報裏面)


20231231日 礼拝説教 中心聖句


シメオンは幼子を腕に抱き、神をたたえて言った。「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり この僕を安らかに去らせてくださいます。」

ルカによる福音書  2  28,29


見よ、闇は地を覆い 暗黒が国々を包んでいる。しかし、あなたの上には主が輝き出で 主の栄光があなたの上に現れる。

イザヤ602


はじめに

主の降誕の恵みを覚えつつ、新しい年に備える今日、命の言葉に共に聞きたい。

「さて、モーセの律法に定められた彼らの清めの期間」とは、割礼に続き、「血のきよめのために、三十三日間こもる」(レビ124節)こと。男の子を産んだ女は、犠牲(いけにえ)の食事や、過越祭に参加することができなかった。この期間が「過ぎたとき、両親(彼ら)はその子を主に献げるため、エルサレムに連れて」のぼった。「母の胎を初めて開く男の子はみな、主に聖別された者ととなえられねばならない」(口語訳:出エジプト1312節)との「主の律法」を守った。受胎告知において、御使いは、「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる」(135節)と約束した。実に、主の律法は、「聖なる者と呼ばれる」お方の誕生を、服従と謙遜において証しすることとなった。主の律法に言われていることに従って、「山鳩一つがいか、家鳩の雛二羽をいけにえとして献げるため」(レビ128節)であった。「貧しくて小羊に手が届かない場合」の規定。祭司が、いけにえを献げた女のためにあがないをし、清められた。「彼ら」の従順において、幼子イエスは、主の律法に服する道を歩み始められた。

「すると見よ、エルサレムにシメオンという名の人がいた」。「この人は正しく、敬虔で、イスラエルの慰めを待ち望み(受け取り)、聖霊が彼の上にあった」。「慰め」とは、呼び寄せることで、主の召しに適って、イスラエルが救われる日を待ち望んでいたこと。「彼は、主のキリストを見るまでは死を見ることがない、と聖霊からみ告げを受けていた」。「彼は、霊の中で神殿にやって来た」。「すると、幼子イエスの両親が、律法の慣習とするところに従って彼に関することを行うために、彼を連れて入って来た」。「すると彼自ら、幼子を両腕に受け取り、賛美(祈り、祝福)をささげて言った」「主(ご主人様)よ、今こそ、あなたは、あなたの奴隷を去らせてくださいます。あなたの言葉どおり、平安のうちに」「わたしの目(両目)が(今)あなたの救いをしかと見たのですから」「それは、あなたがもろもろの民の面前に備えられたもので、異邦人たちを明るみに出す光、あなたの民イスラエルの栄光です」。「彼の父と母とは、彼について語られてことに驚いていた」「するとシメオンは、彼らを祝福し、彼の母マリアに向かって言った」「見よ、この者(御子)は、イスラエルの中の多くの者たちを倒れさせ、起き上がらせる」「そして反対を受けるしるしとなるよう、すえられている」「そして、あなた自身のたましいも、剣が刺し貫く」「多くの者の心からさまざまな思いが明らかにされるため」。じつに、シメオンの証言は、十字架の主を指し示す。それは、異邦人とイスラエルの民の別を超えて、一つの救いが実現することを証しする。人々の罪の思いは、真に、十字架の前に明らかになる。

「また、アシェル族のファヌエルの娘で、アンナという女預言者がいた」。「非常に年をとっていて、若いときから七年間夫と共に暮らしたが、寡婦となり、八十四歳になっていた。昼夜を問わず断食と祈りをもって奉仕し、神殿から離れようとはしなかった」。「まさにその時、彼女は近づいて来て神への感謝を公に唱え、エルサレムの贖いを待ち望んでいる者たちすべてに、幼子のことを語った」。

おわりに

堕落以来、全人類の世は暗い。真の栄光を主キリストの中に共に待ち望みたい。


(Mynote)🖋

二〇二三年一二月三一日(日曜日)、今日も兄弟姉妹共に礼拝を守る事が出来、神様に感謝する。今日は年末礼拝である。
(子供メッセージ)
『子供と親のカテキズム 問六八』
「第四戒は何ですか?」
「安息日を心に留め、これを聖別せよ」です。
十戒の第四戒の事である。モーセがエジプトの奴隷の地から人々を導き、神様の御力に依り、その事が成就した際に与えられた十戒の第四戒の内容である。安息日とは日曜日の事であり、週の始めとされて居り、この七日目に神様は世界を創造され、休まれた事に安息の始まりがある。これはモーセの時、奴隷であった全ての人に与えられた(教えられた)安息の事であり、長らく虐げられて来たその労苦が報われ、神様の恵みと愛に依り、平安が与えられた事を意味する。夫々の人に必要な試練が与えられ、信仰に於いて成長する為の、神様の御計画に依るものであろう。
(公同礼拝)
『ルカによる福音書』(第二章二二〜三八節)
『イザヤ書』(第六〇章一〜七節)
この『ルカによる福音書』では、イエス様がヨセフとマリアの間に生まれ、生まれたばかりのそのイエス様を連れて、エルサレムへ向かう時のエピソードが描かれて居る。それは主(しゅ)の律法に「母の胎を初めて開く男の子は皆、主に聖別された者と、唱えられねば成らない」と書いて在る通り、幼な子を主に捧げる為であり、また同じ主の律法に、「山鳩一つがい、又は、家鳩の雛二羽」と定めてあるのに従って、犠牲を捧げる為であった。
この様に当時の人々(ユダヤの人達)は、旧約時代に示され守られて来た律法や習慣を大事にし、その通りに行動して居た。イエス様がヨセフとマリアにより連れて行かれたエルサレムに、シメオンと言う名の老人が居た。この人(シメオン)は正しい信仰深い人で、イスラエルが慰められるのを待ち望んで居た。
また聖霊がシメオンに宿って居た。そして主の遣わす救い主(イエス様の事)に会う迄は死ぬ事が無いと、聖霊の示しを受けて居た。
シメオンは御霊に感じて宮(神殿の事)に入った。すると律法に定めて在る事を行う為、両親もその子イエス様を連れて入って来たので、シメオンは幼な子を腕に抱き、神を褒め称えて言った。
「主よ、今こそ、あなたは御言葉の通りに、この僕(しもべ)を安らかに去らせて下さいます、私の目が今あなたの救いを見たのですから。この救いはあなたが万民の前にお備えになったもので、異邦人を照らす啓示の光、御民イスラエルの栄光であります」。
イエス様は初めから救い主としてお生まれになり、他の普通に生まれて来る人々とは全く違った。聖霊がシメオンに働きこの様にさせ、神様は初めからイエス様を万民の為の救い主として遣わされた。
この当時には、生まれて八日目の男の子に割礼を施す習慣があり、これは信仰に依る義に在り、神様と人との間で交わされた契約の一つであった。なのでシメオンは神様の祝福の中で幼な子であるイエス様にも割礼を施し、その律法・習慣に従った。この様にイエス様は飽くまで当時の人と同じ様にお生まれになり、同じ様にその習慣により儀式に従った。
また同じその宮(神殿)の内に、年老いた(八十四歳になる)老女が居り、この老女・アンナは預言者であり、彼女もイエス様の傍に近寄り、神様に感謝を捧げ、この幼な子であるイエス様の事を「エルサレムの救いを待ち望んで居る全ての人々」に伝えた。
イエス様は人として生まれながらも、この様に周りの人達から「救い主」として認められる存在に在り、これはあの三人の博士(占星術師)達の時と同じで(先週から学んだ内容)、イスラエルを救い、世界中の全ての人々の救い主に成られる唯一誠の神様の一人子である事が示されて居た。
この様な働きと認知があったのは何故なのか?この点を考える必要がある。それは神様がその様にされ、イエス様がお生まれになってその生涯(公生涯)を成就する迄、最初から最後迄をその御計画に依り、一つ一つ成就されて居たからであろう。イエス様は神様に初めから護られながら、その後の人の間での生涯を送り、十字架に付けられ、三日目に甦り、天に上り、全能の父なる神様の右に座す事になる。
この時にシメオンやアンナに起きた事実を、現代に生かされる全ての人々も同じく信じて知り、イエス様が自分にとってどの様な存在なのか?この事を生涯を懸けて学び、知らねば成らない。この学びとそれによる知識は、信仰に依り、神様の御力と聖霊の働きに依ってしか得られない。人が自力で学び知る事は無い。この事を憶える上で、全ての人はこのイエス様の誕生とその後の生涯(公生涯)、そしてイエス様がその間に全ての人の為に成された救いと恵みの成就を学び、知る程に信じる事が大事に在る。
自分の存在が何処から来るか?この事を考えても、人には自力で真実を引き出す事が出来ない。だから「分からない」の内に信仰の光さえ埋没させ、信じる・信じないを大事に見ない傾向が強くあるが、それでは救いの無い不安定な儘の存在となり、生来神様が愛されて創られた人の姿に成らないのである。自分を知る事は、神様を知る事に通じ、神様を知る事は、その自分の存在の全てが信仰に依り救われる事に成る。人が「自分の何足るか?」を知る事は、その人の本能・正直が求める救いに在る。どんな言葉を以てそれを否定しても否定に成らず、その正直を全ての人は知って居る。全ての人は、自分が信仰に依り、神様に依り救われる事を正直に祈り願って居る。その正直が「人の世界の悪義」により刺激され、歪曲させられ、生来罪人として生まれた「その人々」により様々な罪を着せられ、見えなくされる。これは悪魔に敗北する姿に在る。悪魔は人を滅ぼす者である。その悪魔に滅ぼされず、騙されず、その淵より脱する為に、全ての人は信仰に依り、神様の下(もと)に立ち返り、神様が全ての人に与えたその本能・正直を以て救われねば成らない存在である。
この『ルカによる福音書』と『イザヤ書』に在る両箇所は、その「人の救い」の為にお生まれになったイエス様の事が記されてあり、イエス様こそが唯一誠の救い主である事が事実として報される。信仰に生かされる上では、(ここで何度も記して来たが)信じるかどうかに尽きるのである。その信じる力(信仰の力)は祈りに依り神様から聖霊を通して与えられ、その人本来の生長を現すのである。

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