前奏

招詞 ヨハネの手紙一4章9,10節

頌 栄 たたえよ、主の民[こ改25]

開 会 祈祷

主 の 祈り(週報裏面)

十戒・祈祷(週報裏面)

子ども説教

子どもと親のカテキズム問67

「神さまをおそれる」

こどもさんびか

まぶねのなかに[改79(3節)]

牧 会 祈祷

讃 美 歌 103番

聖書 

ルカによる福音書2章1~21節(新約P102)

イザヤ書9章1~6節 (旧約P1073)

説 教 

「この方こそキリスト~飼い葉桶の中に」

宮武輝彦

祈 祷

讃 美 歌 114番

みことばの交読文

詩編22編28~31節

聖餐式 

感謝のささげものと執り成しの祈祷

頌 栄 542番

祝 祷

報 告


聖書📙

ルカによる福音書2章1~21節

イザヤ書9章1~6節


(口語訳聖書)


讃美歌〜♫🔔🌲


(週報裏面)


20231224日 礼拝説教 中心聖句


ところが(そして)、彼らがベツレヘムにいるうちにマリアは月が満ちて、初めての子(男子)を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。

ルカによる福音書  2  6,7 

 

権威が彼(わたしたちに与えられた、ひとりのみどりご、男の子)の肩にある。その名は、「驚くべき指導者、力ある神 永遠の父、平和の君」と唱えられる。

イザヤ95


はじめに

2023年クリスマス礼拝日を迎えた。「命の泉はあなたにあり あなたの光に、わたしたちは光を見る」(詩編3610節)を添えて、ハンガリーからクリスマスカードが届いた。「ベツレヘムの星は、ゴルコタの十字架と空の墓に導く」とのメッセージと共に。


「そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た」時、当時のローマ世界の人々が、徴税と軍隊のために、一つにされる命令。年若いマリア(十代前半)とヨセフ(二十代?)は、「(住民)登録するために」「自分の町」「ユダヤのベツレヘム」という「ダビデの町へ上って行った」。ヨセフは、「ダビデの家に属し、その血筋」でありながら、特別扱いは受けていない。人々から忘れられた王の子孫として生きていた。「身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するため」。先に、主の知らせ(受胎告知)を受けた、ヨセフとマリアは婚約を解消することなく、すべてを守られて、ベツレヘムに到着した。ついに「彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子(男子)を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた」。「主」の時が、満ちた。


「(一方)その地方で羊飼いたちが野宿しながら、夜通し羊の群れの番をしていた」。

貧しい場所で生まれた救い主の誕生は、貧しい羊飼いたちに伝えられる。ここに、もう一つの「主」の備えを見る。「すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた」。「天使は言った。『恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシア[キリスト]である。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。』」「ダビデの町」も「救い主」も、「主キリスト」も、言わば、その真価を発揮するのは、聞く人の心にその意味が理解されることにまさって、聖霊による新しい命が与えられ、キリストを結びつくこと。その鍵は、「罪からの救い」と「神我らと共にいます」との約束(マタイ121,23)。「すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。『いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。』」ここに、わたしたちは、天と地をつなぐ、唯一のはしごが、御子の謙卑においてかけられたのを見る(ヨハネ151節)。謙卑の道は、十字架の死に至る。そして、復活と昇天の高挙において、主の栄光を見る。


「天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、『さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか』と話し合った」。羊飼いたちの協議は、実行の過程を証しする。主の命令に従う時、聞く者たちの相互の謙遜と一致が求められる。「そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた」。「羊飼いたちの話は不思議に思」われた。「しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた」。「羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った」。


おわりに

「八日たって割礼の日を迎えたとき、幼子はイエス(主は救い)と名付けられた。これは胎内に宿る前に天使から示された名である」(ルカ131節)。この名のとおり、イエスは、ただお一人の救い主、まことの王、キリスト。今日この主を共に喜びたい。


(Mynote)🖋

二〇二三年一二月二四日(日曜日)、今日も兄弟姉妹共に礼拝を守れる事を神様に感謝する。今日はクリスマス礼拝であり、聖餐式の日である。
(子供メッセージ)
『子供と親のカテキズム 問六七』
「第三戒で、神様は私達に何を求めて居られますか。」
「神様のお名前とは、神様ご自身の事です。ですから、神様は、ご自身を畏れ敬い、愛と親しさを以て、ご自分の名前を呼び、用いる事を求めて居られます。」
イエス様がお生まれになった時のエピソードが話されて居た。そのとき三人の博士(占星術師とも)がイエス様の元を訪れた。この事を当時の王ヘロデも聞いて居た。そしてヘロデもその三人に「イエス様が生まれたかどうかを確認して来なさい。本当なら私も拝もう」と口約束をした。けれどヘロデはその実、イエス様を殺そうとして居た。この事も覚えながら、クリスマスがどんな日かを常に心に留め、イエス様がお生まれになったこのクリスマスをお祝いしましょう。
(公同礼拝)
『ルカによる福音書』(第二章一〜二一節)
『イザヤ書』(第九章一〜六節)
この両箇所は、イエス様がお生まれになる迄の、所謂るクリスマスのエピソードが記されて居る。クリスマスの原点・始まりである。
このイエス様の誕生は、神様が人の間に救い主を遣わされ、全ての人の罪を贖う(清めて許される)機会と土台を与えた。イエス様は、神様が人としてお生まれに成った事と同じである。このイエス様の誕生から今日まで、クリスマスは世界中で祝われる様になった。けれど時が経つにつれ、「なぜクリスマスが祝われるのか?」その原点が忘れ去られる様になった。詰り「イエス様の誕生をお祝いする事」を忘れ、ただ「何か芽出たいから」「皆がお祝いしてるから」等の理由で祝う。或いは「イエス様のお生まれになった日」を知りながらでも、自分の罪の贖いを忘れ、普通に「誰か(イエス様)の誕生日だからそれを祝う」留まりになり易く、そのクリスマスの真意が忘れ去られて居る。この傾向が日本だけでなく、世界中でも在るのではないか?
クリスマスとは先ず、イエス様が救い主として人の間に遣わされ、全ての罪人がその罪の淵から救われる事を祝う事が大事であり、その上で人は自分の罪深さを思い知り、だからこそ救い主(イエス様)の到来が自分・自分達(兄弟姉妹)にとって最大の恵みである事を喜び、その事を祝う。この心得が必要になる。
世界中では未だ戦争(争い)が続いて居り、罪人として始まった人間の歴史を見れば「全く進歩して居ない・悔い改めようともしない・信仰に於いて成長して居ない」事が簡単に見て取れる。そうではないか?これ迄の歴史を参考にするなら、先ず何が罪で何が正義か、その事も良く考えれば分かる(解る)だろうか。しかし多くの人は「自分の以て生まれた罪」の事を長くは考えず、次第に全く考えなくなり、何かで失敗したり窮地に陥った時にだけその辺りを考え、やはり普段は考えない(その窮地を脱すれば考えなくなる事も含め)。人の間ではまた「許される罪と許されない罪」を勝手に決めて、例えば合意の下(もと)では罪に問われない事が強調される事もある。「清く正しく…」という言葉があるが、この言葉の意味さえ正確に捉える事が出来ず、自分勝手な解釈を夫々がして、罪を正義に置き換える風潮・習慣すら身に付ける。これは罪である。そう言われても理解出来ない、或いは怒る人も在り、その時、自分の罪を考えて居ない。これはクリスチャン含め、全ての人に問われる事に在る。
クリスマスの原点を問う時、先ずこの「人の罪を正しく考える事」が大事になる。そうする事でイエス様がお生まれになったその意味が更に良く分かり(解り)、人が何足る者か?その辺りも自分を見て思い知る様になろうか。自分の罪の意識が無いから、クリスマスを「唯の祝い事」と淡く捉えるだけになり、真面にイエス様と向き合う事・クリスマスと向き合う事、或いは又クリスチャンと向き合う事すら、クリスチャンと自称しながら出来て居ない事がある。
イエス様がお生まれになったこの当時、ローマでは権力により徴税を為し、その徴税(今で言う税金)を「全ての国民から取る」事をして居た。税金の使い道は軍の整備であり、権力を担う者達・その関連人物達が必要とする物に使われた。詰り国民から富を貪り、自分達さえ良ければそれで良しとする、独裁政治がこの時から横行し、人々を支配して居た(この点も現代と変わって居らず人には進歩も生長も無いと見える)。人は何時(いつ)迄も何処までも罪人である。
このクリスマスの意味と、イエス様がお生まれになった意味(目的)を知る為には、神様の御力に依り、聖霊の働きに依り、信仰に依り知らされねば絶対に分からない(解らない)。人が自力でその意味を理解する事は無い。クリスマスの事を考える時、同時にイエス様がお生まれになった理由を考える事になり、そのイエス様の誕生に自ずと携わる事になる為、その意味(目的)を既に考えて居る。詰り全ての人にとって、その信仰が成長する為の土台が与えられて居る事になる。この事に先ず気付き、知る事が大事になる。
「罪人である自分にとって誠の救い主とは誰か?」この事を知らねばクリスマスの意味を理解する事も無く、また神様がイエス様を通して与えた恵みに就いて理解出来ず、その恵みと愛を見逃す事に成り兼ねない。その恵みを与えられて居るに拘らず、その事を心で受け留め、考える事をしない。これは恵みに就いて考えて居ない事であり、その恵みを見逃す事に繋がる。クリスマスの意味を正確に理解し、その救い(恵み)を受ける為には、先ずその事を考え、自分の人としての糧とされ、その上で祝いと喜びが得られる。
これは現代人にだけでなく、イエス様がお生まれになった当時の人々にとっても同じ事である。当時はまだクリスマスが無く、その事を理解する土台も環境も無く、自分の為に救い主がお生まれになった事すら分からなかった(解らなかった)。しかし神様の御計画の内で人々に恵みが与えられ、クリスマスを世界中で祝われる様にされ、イエス様(唯一誠の人の救い主)の存在が知らされた。これが福音の原点でもある。神様が御用意された人のこの地上で、目に見える形で、手に触れる形で、その奇跡が経験を以て知らされる形で、全ての人に与えられたのである。人は皆、本来、神様に命を与えられ、この地上に生まれた息子と娘、即ち兄弟姉妹に在る。この事を憶える上で、神様がイエス様を通して当時の人々に与えた恵みは時間に関係無く、現代(いま)でも全ての人に同じく与えられて居る。人は何時(いつ)からでも救われる。神様に立ち帰り、イエス様に従い、クリスマスの原点とその意味を考え知る上で、本当のクリスマスを祝う事が大事に在る。


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