「文學への妙~作家の君に告ぐ~」
 中学・高校時にかけて、君は国語の時間、教師になんて言われた?たとえば作文を書いたとき、感想を求められた時など、君に関係ない評価をされたのではなかろうか。教える筈の教師から、訳の分らない妄想を聞かされたのではないか。「君の作文はこの鴎外や漱石に比べて、酷く劣っている」や、「そんな事、この箇所を読んで答えるべき事じゃない」や、「もっとわかりやすく説明しなさい」や、「ここは削れ、この説明は入れろ、私が求めている君の解答はこんなものじゃない」など。或いは、その教師(もの)独自の主観を浴びせられただけかも知れない。「ここはこうすべき」「この表現はわかりにくい。もっとこうすれば、人には伝わり易くなる」などは、作品を書く時の助言に必要ない。必要なのは、誤字の訂正、基本的な文法、それらを駆使した上での独自の表現である。そんな教師の戯言に、甘い誘惑に魅了される心地良さを感じ、時々自分が宙に浮かぶ気がして、「まぁいいか…」などと、諦念を呈して屈したのではなかろうか。そんな時、屈する自分を正当化する為に、「学生の本分は勉強です」、「学生なんだからギモンに想ったってしょうがねーだろ」、「文学なんて、一人で愉しむべき」などと自答して、一人部屋に籠ってしまい、二度と他人に自分の素直な感想を公表するなどやめてしまった、というような経験を君は持って居ないか。そんな青少年が被る経験は、そこらここらにざらにあるのだ。「日本人はシャイなんです」というニュアンスに落ち着けて自分を見失う行為は、世間に対して無責任を掲げられる青少年に特有の産物でもある。このような諦念に備えた行為を、君はいつから始めた?
この内、「文学なんて、一人で愉しむべき」という言葉は当っている。文学とは、独りで愉しむべきものである。しかしそれなら「君の一人の世界」に、教師(第三者)の言葉が入るのは可笑しい。日本人はたいてい純粋と言われる。例えば外国人は、「日本人の伝統には義理というものがあるから、主張を以て裏切る際に騙しやすい」と言う。特に日本人は子供の頃、抗う術を持つ事にそれほど執着しない。たいてい、保守に入る。このような背景を経て現代人に告ぐ。主張するべきである。常識を打ち破れる強い「抗い」を持つべきである。そうしなければ文学は成らない。文学をモノにしたければ、一人部屋で作品を書き続けろ。ずっと続けて行けばその書いた作品は必ず誰かに認められる。その「確認」がアドリブのように連なり、例えば受賞に繋がったりもする。
作家という者はどいつもこいつも自己陶酔者である。批評などと浮かれたような戯言を並べる奴だって、家に帰れば違う顔を持っている。批評の壇にて見せる顔は仮面である。そう「受賞の壇」は「祭の壇」だと思えばいい。皆、適当に「賞」を決めているのだ。騙されちゃいけない。「作品」の為に、正直を作家は皆隠している。「鳥篭」を大事に持っているものである。
結局、作家に必要なのは「継続は力なり」である。どんなに作品創りが上手くなくても、創意の努力を続けていれば「そこに何かある」と他人は騙され、その著者を崇めるものだ。そしてこの「崇拝」は君の作品に無縁である。他人の感情により、君の作品が変わる事はない。作家と成った君は他者から干渉されない。作家と成った君の相手は自然である。「作家の末路は時流によって定められる」とか言う者が居ようが、一作家にとってそんな噂は関係ない。そう言うのは商人・俗人である。作家は自分に必要な努力を続けるだけだ。「時流」により認められる機会が来る者には来て、来ない者には一生懸けても来ない。
作家は皆、同じ事を言う。漱石が言う事を君が言っている。あの詩人が言う事など、もう遠に君の記憶に薄れている。君が昔に何度も呟いた事を、いま一度、あの作家が「小説」「詩集」などという豪勢な舞台を仕立てて言うだけである。表現法が違うだけである。その「認められた作家」というのは「時流」に認められた故にそこに居るのだ。どんな主張でも、分野毎に行きつく先は同じである。また貧富により作家が滅びる事はない。
いいか、作品を書く上で、文章が上手いも下手も、表現法が正しいも間違っているもないのだ。書き続けろ、書き続ければその者のスタイルが生れる。スタイルが生れれば、あとはその者が勝手に成長への道の在り方を決められる。その者の作品は、その者にしか書けない物であり、その者にしか評価できない物である。他者はただそれを読んで、自分の主観により、いろいろ口勝手に「君に関係ない批評」を言うに過ぎない。他人の感想により成る作品はその他人の作品ともなる、君の作品の内容が薄れるのである。君の事を理解出来ない教師から離れろ。誰かが作った訳の分らぬ常識・感想から離れろ。そうすれば、君は作家になる為の一歩を踏み出せる。あとは自分の経験により、自然と対峙しながら成長するだけである。
ここでまた「他人を自然の一部と見做す方法」がある。それについては、後日、改めて記そうと思う。とにかく、ここで告げようとした事は告げた。これはこれで良しとする。
 
 
「方針」
 いくら教育方針を検討しても、その教えられる側の生徒に問題があれば、その方針に期待した結果は成らない。
 
 
「人の絆」~Human Bonds~
 人の絆など、誰との間においても、どんな状況においても儚いものである。しかしその絆は、神により、人の思惑の内において堅固なものとなり、「闇に光る希望」のような目的を与えるものになる。
All bonds that are needed from people always are ephemeral in every circumstances. Even the bond that is seen between parents and child is fragile. However, it, by God's energy, would become to the strong precious treasure that is able to show us destination like hope shining always.
 
 
「国文学序」~Introductory chapter relating to Japanese Literature~
 俺は評価する側よりも、評価される側に回りたい。出会った教授も学生も皆、「評価する側に回りたい」と言った奴等ばかりだった。初めはガッカリしたけれども、そのうち、それでいいと思い始めた。作品を書いているうちにそう思い始めたのだ。このような環境にいる事が、現実においては、自分の性に合っている思ったからだ。
Rather, I hope to become to person who always is reviewed than person who is reviewing. I had been disappointed because all persons who I had met said that we hope to become to reviewer. But, I began to think that it is good while writing my own works. It is because that this like environment is suitable to my own characteristics in this reality.
 
 
「俺は現代人ではない」~I'm not suitable to a modern man~
 「現代人」とは現代人の男女問わずを指す。俺は、現代人が愉しむもので愉しめない。現代人が行きたい所へ行きたくない。現代人がする事をしない。現代人と一緒になりたくない。俺は現代人が大嫌いである。俺は現代人を余程に憎んでいる。こんな現代人にもピンからキリまであるが、ピンを残して他は全員いなくなればいいと思っている。どこか、俺の知らない別の土地へ行って暮らせばいいと思っている。そうなってはくれないだろうか。ならない事を知っている。神がそうはしない。この場合、恐らく悪いのは「俺」となる。聖書によればそうなる。故に、俺は現代人が嫌いであり、現代人を憎むのである。理由はこれまで幾億回も呟いてきた。