今回の記事は、がんや糖尿病とは関係のない話なので、興味のない方はスルーしてくださいね。でも私にとって書き残しておきたい事なので、読んでいただけたら幸いに思います。
私の職場には現在4名の男性の残留孤児関係者がいます。そのうちの二人は日本人と中国人のハーフ、残りの二人は日中ハーフの女性のそれぞれの夫です。この人達は時期は違うけど、30年ほど前から日本へ来ています。そして最初に私の職場にきた男性は、今から24年前に私の知人から頼まれて、とりあえず会ってみたのです。初めてのケースなので不安もありましたが、私の妻と本人をよく確認した上で職場に入れました。私の妻は洞察力が鋭く、相手のほんのわずかなしぐさや表情から心を読み取ったり。嘘を見抜いたりすることも上手だったのです。でもそれからは彼自身に頼まれ、現在は段階的に4名の残量孤児関係者となっています。
歴史を少し遡ると、戦前に旧満州(中国東北部、現在のハルビン、長春など)に居住していた多くの日本の民間人は、ソ連が参戦して日本の敗戦が濃厚になった時に、朝鮮半島を経由したりして、汽車と徒歩で逃げてきたのです。その場合のルート(釜山港まで)は、およそ青森県から山口県くらいにまで相当し、幼い子供にはまず難しかったことでしょう。そのあたりの描写が、藤原ていさんの実体験小説「流れる星は生きている」に詳しく描かれています。その時に多くの子供たちが現地の(子供がない)農家に引き取られました。その子達は中国人として育てられ、成人すると現地の中国人と結婚したのです。その人達が残量孤児一世で、NHKドラマ「大地の子」の主人公はこの世代にあたります。私の職場の4人とその妻の人達は、この世代のさらに子の世代(第二世代)にあたり、その人達も現在はすでに60歳前後ですが、第一世代の親の帰国時に一緒に日本へ来たのです。私の職場の男性達は日本語も流暢で真面目なのですが、一番最後に職場に来た男性だけは日本語があまり得意でないのです。彼自身は本来は中国人で、その奥さんが残留孤児二世です(奥さんの母親が日本人、父親は中国人)彼は20年ほど前に夫婦で来日し、その後日本でマンションを購入して、日本で生まれた一人娘と三人で暮らしています。
この7月末のある朝、彼から電話がかかってきました。背中がすごく痛くて動けない、というのです。私は「無理しないで良くなるまで休んでいていいよ」と言いました。ところがその翌日になっても痛みは全然よくならないのです。そんなやり取りが数日間続きましたが、ここで困ったことが生じました。彼の日本語があまりにも上手でないことがわかったのです。例えば「夜寝てる時にも痛いのかい?」という簡単な問いかけにも答えられないのです。普段は話しかけるといつもニコニコしていたので、こちらはわかってるものだと思っていました。しかし今回はかなり詳しいことを説明しなければならない状況です。この件が労災扱いになれば本人にとって有利になるので、私はできればそうしてあげたかったのです。しかし慢性的な腰痛の労災認定は、原因が業務上であると特定しずらく、かなり困難です(業務災害とハッキリ説明できるぎっくり腰などの場合は別)私は過去に別件で、ぎっくり腰の労災申請さえ否認する職員と直接掛け合ったことがあり、私がきちんと説明してなんとか主張が通ったこともあったのです。そのような複雑な内容を説明するのは彼の会話力ではとても無理です。
私がどうしようか困っていたある日、突然彼の娘さん(大学三年生)が電話に出てきたのです。その娘さんは日本生まれなので日本語は普通に話せます。それからはその娘さんが窓口になったので少し安心できました。でもその数日後に整形外科で診てもらったら、脊柱管狭窄症の疑いがあり、大きな病院で精密検査するように言われたそうなのです。私は嫌な予感がしました。脊柱管狭窄症は、場合によっては歩けなくなることもあると聞いていたからです。私はすぐに労務士へ相談しましたが、脊柱管狭窄症はほとんどが加齢が原因とされ、今回のケースでも業務上のハッキリした原因が特定できないので、労災認定はまず無理だろうとのことでした。なので結果的に、この件は社会保険の休業補償(欠勤期間の約6割補償)で対処する方針にしたのです。いずれ大学三年生の娘さんにもそのことを説明しなければなりません。そしてその数日後に娘さんから連絡があり、精密検査の結果、やはり脊柱管狭窄症だったのです。私の嫌な予感が当たってしまいました。ただ唯一の救いはまだ初期段階なので、手術はせず安静にして様子をみるということでした~続く