ごきげんよう!森澤勇司です!
まずはコメントのお礼です!
■松本 菜穂子(愛称=なほ)さん
URL:https://ameblo.jp/chiru2anri/
スゴイ!
そんなボトルあるんだね!
ゆーちゃん減るの早そう^ ^
いつもほとんど無駄話する暇ないー😆
■智田さくら(風呂敷ライフプランナー)風呂敷と手ぬぐいのある暮らし&インド在住/『結び屋ゆいく』主宰さん
URL:https://ameblo.jp/tomodasakura/
早速使って頂き、ありがとうございまーす!私が最も使ってるツールの1つです!!ゆうぽん先生にも、お役に立てれば幸いです!
今回は
「わかりやすさ」をテーマにお届けします。
お仕事のヒントになれば幸いです。
「わかりやすさ」とはなにか
「能楽は、難しい」名刺交換などする度に言われる言葉です。
このところ「わかりやすい」くするために
いろいろな取組みが行われています。
解説付の公演
パンフレットの充実
詞章の配布
用語解説
口語訳
電光掲示
などなど
ではこれで
「わかりやすい!!」といわれるかというと
そうでもない。
能楽は芸術ですから
アートとアカウンタビリティ(説明責任)
ということを突き詰めていけば
理解よりも「感じる」ものです。
「何を知りたいのか」
ここが人によって違うところが
違うというのはありますね。
以前、東大出身の
テレビ局の方が舞台にいらしたときは
「詞章ないんですか」と言われました。
かれは言葉が聞き取れないということが
「わからない」でした。
古文はできる人ですから「詞章」があれば
「わかった」といっていました。
この「わかった」は物語が分かったという意味です。
終わった後に食事に行って
舞台の話をしたら
ほとんど舞台は見なかったです。
これは今に始まったことではなく
かの三島由紀夫先生も
「舞台をみないで謡本を見ている勉強熱心な人が多い」と
書いています。
「わかりやすさ」とはなにか
今回の答えを出してみたいと思い立ちました。
美文と名文
わかりやすさについてはたくさん本も出ていますが
やはり「伝え方」のみで無く「美しさ」を追求した
川端康成先生に問いを立ててみました。
やはり文豪の視点は勉強になります。
古典はできた当時「美文」であり「名文」であった。
しかし時代が変わり「美文」であることはかわらないが
「名文」の条件は変わっているだろう。
わからなくなってしまっては
名文ではありません。
外国人記者が
川端康成先生が筆で「書」を書いているときの
質問も興味深いないようでした。
「これはドローイングかライティングか?」
外国人から見たら
書は文字を書いているのか
絵を描いているのか
ハッキリとしないわけです。
これ文字優先だったら
ゴシック体のほうがわかりやすいですし
絵だったら何が書いてあるか分かりません。
能楽をはじめ日本の文化は
カテゴリーを分けにくい所があります。
書道展にいって「美しい文字」とは思っても
なんて書いてあるのか分からない作品はたくさんあります。
これもやはりアートとして「感じる」ものであって
理解するものではないように思います。
この書いてある内容だったら
印刷物が好いですし
書という物の存在意義も全くありません。
「わかりやすさ」の方向性
「わかりやすさ」を求めている人は
ほんとは何を求めているのか
知りたい
理解したい
学びたい
本を読むのとおなじ
知識欲が「わからない」という
不満を生みます。
そして解消されない大きな理由はこれです。
手軽に
お酒や寿司、蕎麦などと同じく
何度も体験しなければ
味が分かるようにはなりません。
1回立ち食い蕎麦をたべて
蕎麦がわかるようになりたい
これはちょっとお手軽すぎるものです。
やはり一定期間通うことで「通」になる。
その都度その都度の感じ方の蓄積が
芸術の「わかる」につながっていきます。
また、ある年齢や人生経験が無いと
理解できない事もあります。
お酒を小学生に分かるように飲ませる
薄めて飲ませるのが、
わかりやすさとは思えません。
小学生にお酒のことを
つたえるなら
発酵のしくみや
神事や料理につかうなど
飲めないなりにわかる方法はたくさんあります。
ここが「わかりやすさ」の
方向を間違えると
薄いだけのものになってしまう可能性が高くなります。
「わかりやすさ」とは