まずは、
皆さんにお知らせを☆
先日開催された、
立ち見続出、
大爆笑連発の、
累計150万部越えの、
超ベストセラー作家、
山崎拓巳さんとの、
朝のコラボ講演会『朝拓』。
オンラインサロン限定で、
無料配信されます☆
オンラインサロンを、
ご利用ください☆
↓↓↓↓↓
↑↑↑↑↑
そして、
今日のお話☆
先日の、
『伝説の出雲神在月ツアー』を終えて、
間もなく出雲では、
出雲の地に集った、
八百万の神さまたちのお帰りを、
お見送りする、
『神等去出祭( からさでさい)』が、
行われます。
まだスサノオさんたちは、
出雲から、
帰ってきていないため、
神さまの御霊は無限に存在するので、
出雲の地にいるスサノオさんもいれば、
全国各地の神社を引き続き護る、
スサノオさんもいるわけで。
僕の所にいるスサノオさんも、
帰ってこようと思えば、
帰ってこれるのですが、
どうやら今年は、
アマツミカボシさんのこともあってか、
よっぽど嬉しいらしく、
最後まで出雲にいたいとのことです)
小春と影狼、
ひなたと静かな時間を過ごす中、
※小春や影狼、
ひなたは僕についている眷属なので、
基本的に僕から離れることはありません。
改めて今回の、
出雲神在月ツアーを、
振り返っていた。
素敵な旅だった。
改めて1つ、
疑問に思ったことがある。
この旅の中で僕は、
神社以外の場所でも何度となく、
手を合わせて、
神さまに祈りを捧げていた。
今まで疑問に思っていなかった、
そのことに対して、
改めて深く、
考えてみた。
今日の、
お昼のブログにも書きましたが、
今まで疑問に思ってこなかった、
日常の些細なことに、
疑問を感じることが実は、
『神さまに触れる』、
ということであり、
この、
『手を合わせる』という行為についても、
改めてその意味を、
考えてみたくなったのです。
『手を合わせる』という行為の起源は、
インド古来の礼法であり、
仏教を通して、
日本に入ってきた説が有力だと言います。
そこで終わってしまっては、
それまでだと思うので、
ではなぜ、
その礼法というものが、
『手を合わせる』という行為であり、
それがこうも日常にまで浸透し、
何千年と経った今も、
続いているのかという所まで、
考えてみたくなったのです。
何より日本人は、
神仏に祈る時だけではなく、
『いただきます、ご馳走さまでした』、
を言う時、
亡き人に向けた合掌、
そして何よりも、
出雲ツアーの時に、
僕が自然とやっていたように、
大いなる何かに心が突き動かされた時、
自然と手を合わせているのです。
そして僕自身が、
その時に、
手を合わせていた時の心境を、
深く考えてみました。
そこにあったのは、
『神さまと一つになる』、
という感覚だったのです。
右手と左手というものは、
本来同じ肉体ではありますが、
それぞれが、
別の役割を持つものです。
右手が箸を持てば、
左手はお茶碗を持ち、
右手がペンを持てば、
左手は紙を押さえるといったように、
それぞれが、
違う役割を持つ存在が、
手を合わせることで、
『1つ』になる。
『いただきます・ご馳走でした』、
の場合で言うならば、
食材の命と、
自分の命が一つになる、
ということ。
手を合わせるということは、
その人の魂と、
一体になるということ。
そして神仏や、
大いなる『何か』に、
手を「合わせるということも、
畏敬の念を込めて、
その存在と、
1つになるということ。
『貴方は私と共にあり、
私は貴方と共にある』という、
人と神、
神と人、
人と人、
人とすべて、
その生きとし生けるもの、
そのすべてと自分を、
隔てる境界線を無くしていく、
象徴こそがこの、
『手を合わせる』行為である、
ということ。
自宅の神さまスペースに向かって、
日頃の感謝を込めて、
手を合わせてみた。
…。
……。
………。
…………。
あ「………」
お~い!ハゲ頭!!
帰ってきたぞ~!!」
因幡「ギャハハッ!!
楽しかったでやんす!!
出雲にはかわいい姉ちゃんが、
いっぱいいたでやんすっ!!」
道「ギャハハッ!!
ギャハッ!!
もう神在月最っ高!!」
塩「ギャハハハハッ!!
マッスル、マッスル、ムッキムキ!!」
帰ってきました(笑)
幸せのコツ──大富豪 父の教え 1,404円 Amazon |
神訳 古事記 1,512円 Amazon |