しばらくブログに触れる気持ちの余裕がなかったため、少し離れていました。

先月、自然排出の直後に書いて保存していたものに、少し手直しを加えたものを投稿します。

よかったら読んでください。


猫しっぽ 猫からだ 猫からだ 猫からだ 猫からだ 猫からだ 猫あたま


自然排出を無事終えた今思うことを、つらつらと書き綴りたいと思います。

何の根拠もない、空想じみた考えですが、たぶん人の寿命は、どこか人の知り得ないところで決まっていて、今回の子はこういう寿命だったんだと思います。

染色体異常が原因だったとしても、また別のことが原因だったとしても。
(今回のこと、先生はおそらく染色体異常と言い、実際流産の原因はそれが大半を占めていますが…)

たぶん命が宿る時には自分の寿命が分かっていて、そして、たぶんお母さんも選べて。

短い命でも受け止めてもらえる人のところに来るんじゃないかと。

たとえば、すでに子どもがいて、初めての妊娠じゃないとか、初めてだけれど、それなりに歳をとっていて、心がちゃんと大人な人とか。
(これはものすごく個人的な意見です。今回のこと、はじめての妊娠だったなら、私は耐えられなかったと思いました。はじめてでもちゃんと受け止められる強い人もたくさんいると思います。)

お母さんの心をできるだけ傷つけたくないから、できるだけ心の強い人のところに。

でも、できたら、自分が来たことを喜んで欲しいから、赤ちゃんを望んでいる人のところに。

もし、望んでないのに来たのならば、その方がすぐにいなくなっても傷つきにくいかもと考えた、より優しい子なのかなと思います。
(本人にとってどうかは別としてですが…)

さらに妄想じみたことを言うと、望んでなくてやって来て、無事産まれて来る子は、お母さんが寂しそうで見てられない、自分が側に、と思って来たのかなとも思ったりします。
(今回の話とは少しずれますが…)

とにかく、どの子も、お母さんと自分の幸せを願って来るんだと思います。

だから、今私が思うのは、流れてしまって悲しいというよりは、短い命でも来てくれて嬉しかった、という気持ちが圧倒的に強いです。

強がりではなく、自然と。

確かに、流産が分かった時は、予想もしてなかったことで、悲しくて涙が溢れ、正直、この妊娠はなかったことにしたい、早く次の妊娠を…と思いました。

でも、今回数日かけて自然排出を経験し、たぶん赤ちゃんの袋かな?と思われるものも目の当たりにして、思いは自然に変わりました。

3人目と呼ぶには小さすぎるけど、2.5人目とは呼んでもいいんじゃないかなと、公には認められない存在だけれど、心の中でこっそり思っています。

この小さな小さな子も、間違いなくうちの子だと。

ただ短い短い命だっただけ。

そう受け止めています。