共犯関係とダブスタ、或いはyui-yuiの偏執。 | 今だけ( >ᴗ<)و ̑̑ チョットだけ( >ロ<;)و ̑̑

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フリースタイルダイアリー的なアレコレ。たった一度の毎日、無駄にはできません。

 おはようございます、こんにちは、こんばんは!

 yui-yuiです!٩(ˊᗜˋ*)و

 

 最近もうやるゲームがない、ということもあり、ブログを書きますw

 アーマード・コアⅥの発売までもうすぐですし、その間に新しいゲームを買っても中途半端になりそうですしねw

 

 さて昨日は古典部シリーズ、氷菓のことを色々書きました。

 ブログを上げた後に『米澤穂信と古典部』をほぼすべて読み返しました。

 掲載されている、書きおろし短編『虎と蟹、あるいは折木奉太郎の殺人』というお話も、勿論読み返しました。

 

 いやぁ、わたしが好き過ぎて贔屓目になってしまっていますが、やっぱり面白い。

 

 読み返してよかったぁ… (❃´◡`❃) 

 

 さて、本題。

 

 書き手と読み手。

 情報を発信する側と、情報を受け取る側。

 両者の間にある『共犯関係』。

 

 そんな言葉が、この短編『虎と蟹、あるいは折木奉太郎の殺人』に登場します。

 

 わたしが提唱した訳ではないですよw

 

 これは、文章として、台詞でも地の分でも書き表していない部分を想像することに、一つ、そんな関係がある、と作中で語られています。

 

 ちなみに言っておきますと『共犯関係』とは書きましたが、これは犯罪でも、ましてや悪いことでも何でもないお話で、便宜上『共犯』という言葉を使うのがしっくりくるだけ、という話ですのでご了承を。

 

 これにはわたしも同意しておりまして、どういうことかと申しますと。

 

 文章に(台詞にも)書かれていないことが、省略だったのか、不備だったのか、ということ。

 

 一旦、短編からは離れまして、例えば、生々しい話になってしまいますが、わたしの多くの作品のように、女性が主人公だった場合。

 高校生から成人女性、色々な年代が主人公となっていますが、女性にはいわゆる『月のもの』があります。

 

 仮に、一ヶ月の毎日をお話にしたとすれば、その月のどこかで必ず1回は訪れるもの。

 ですが、それをわざわざ書く必要があるか否か。

 

 もちろん『小説として』です。

 

 メインのテーマに据えていることが、例えば月経に関してのことだったり、性に関することであるのならばそれは勿論必要になる場合もあるでしょう。

 

 でもわたしのお話の殆どは、バンドや音楽、そして恋。それらを通じて成長する主人公達のお話。

 もちろんそれソレが必要ならば書きますが、主人公達がバンドを初めて、どんどん成長して行くお話に、ソレは必要か?と自問すると、わたしには必要がない、と思えるのです。

 

 そこを、一ヶ月毎日描写していてソレがないなんてリアリティに欠ける、と思う方もいらっしゃるかもしれませんけれど、それを『不備』とみなす方はいらっしゃらないかと思います。

 

 それが、「あぁ、明後日あたりに来そうだな……」などと書いておいて、その後一週間、生理不順の一言もなしに普通に生活していたら、それは『不備』になると思います。

 

 先ほども書きましたが、必要とあらば、それは書きます。

 

 でも、女の子たちが自分達の力で頑張って何かを成す、という話に、それは必要ないとわたしは思うのです。

 

 だから、書かないし、極力触れない。

 

 もちろん、わたしのお話は毎日、一日一日を書く訳ではありません。

 でも、それに軽く触れることだってあります。今日のアイツは体調が悪そうだから月のものが来ているのかもしれない、程度には。

 でも、それ以上は要らないでしょw

 

 もっと細かく言えば、女性に限らず、男性でも、排泄の部分。

 

 それと男性も、月のものとは違いますが、物理的に溜まるものもあります。それの処理を書く必要性はこれっぽっちもない。

 男性同士でそんな猥談がストーリーの中にあれば、その延長で書くこともありますが、それこそ必要に応じて、です。

 

 推理小説で、今まさに、解決編!

 というところで、ちょっとおトイレ……なんて、探偵役が席を外したら、もしかしたらリアリティはあるのかもしれませんが、話の腰はぼっきりと折れます。

 

 ゲームでもそうですね!

 

 食事が設定されているゲームは多いですが、時間がきちんとあって、朝昼晩とゴハンをしっかり食べる。というロールプレイングゲームは、テーブルトークロールプレイングゲームを除いて、ほぼないはずです。

 

 これは現実の登山においてもそうでしょうから、冒険者もきっと時間になればお腹は空くし、お腹が空けばご飯を食べます。

 ご飯を食べれば当然排泄もある。

 

 テーブルトークロールプレイングゲーム、最近のものは判りませんが、わたしが遊んだものでは、重さ制限もしっかり設定されていましたし、行軍中にモンスターに出会おうものならば、背負い袋を降ろし、戦闘準備をしなければなりません。

 街では通常食や保存食なども購入し、時間経過で消費しなければなりませんでした。

(ゲームマスターに依って食事をオミットする方もいらっしゃいますし、ルール上食事がないゲームもあります)

 でも、排泄については省略されています。

 

 そうしたことが、いわゆる、読み手側、ゲームで言えば遊ぶ側、プレイヤーが、お話やゲームに手を貸しているようなもので

『そういうものだから』

 と相互理解が成立している、となります。

 

 これが、『書き手と読み手の共犯関係』です。

 

 時代劇の殺陣で、刀があまりにも軽々しいこと、血の一滴も吹き出ないこと、返り血もなければ、刀に血もつかない、何なら一太刀浴びれば、悪党は即座に絶命する。

 

 プロレスで言えば、ロープに振られた選手が、律儀にばぃーんと返ってくること。

 そしてロープに振った選手が、その場にうつ伏せにずだん、と寝そべって、振られて返ってきた選手が、それをぴょいと飛び越えること。

 

『んなわけあるかい!』(゚Д゚;)

 

 時代劇ファン、プロレスファンの方であれば、そう思う方は少ないと思いますし、時代劇の映画ともなれば、そうしたシーンにリアリティを付けるために力を注ぐ演出もありますが、でも、時代劇ファンの方々は『そうしたもの』と理解していますし、プロレスファンの方々だって、ショープロレスであることを解って楽しんでいらっしゃいます。

 

 平たく言いますと、

作者:『これはそういうものと理解してね』

視聴者:『委細承知、みなまで言うな』

 といった感じでしょう。

 

 ね、犯罪でも何でもないでしょw

 

 でも、そうした部分のバランスは難しいですね。

 

 先週具合が悪かった時に、いっぱい、仮面ライダーとプリキュアの映画を見返しました。

 どちらも子供番組ですし、唐突に、何の理由も説明もなく、凄く大きな力が発生して、ピンチを脱することはまぁ多い多い。

 

 これはテレビ版のものよりも、映画版、特に、多くのライダーやプリキュアが一堂に会するクロスオーバー作品が顕著です。

 

 細かい話をすれば、変身後、どこにも武器など装備していないライダーやプリキュアが、急に武器を手に持っていたり。

 

 もちろん、武器を腰などにしっかり装備しているライダーもいますし、手から魔法の力のようなもので出現させる、という演出を添えいているライダーやプリキュアもあります。

 

 でも、そうした設定も、まったくないライダーもプリキュアいます。

 最近のは顕著ですね。

 一瞬前のシーンでは手ぶらだったのに、次のカットでは武器を手にしている。

 

 言ってしまえばそれこそ、何の提示もない不備だと言えるかもしれません。

 

 ですがそうしたものも、まぁ子供向け番組だしね、仮面ライダーだしね、プリキュアだしね、突っ込むのは野暮天というものよ、という、いわゆる『創り手と受け手の共犯』関係が伺えます。

 

 わたしが昨日書いた、米澤穂信先生が言う『小説の力』もそれにあたるのではないか、と思うのです。

 

 ……と思っていたのですが、昨日『米澤穂信と古典部』を読み返したところ、『米澤穂信と古典部』では、綾辻行人先生との対談の中で、綾辻先生が一度だけ言っただけでした。

 何かとミスリードしたのかもしれません。

 でも、どこかで読んだ気がするんですよねぇ。ネット記事だったのかな……。

 

 古典部シリーズの登場人物たちは、いわゆる今風の若い子達のような口調でも立ち振る舞いでもない、と。

 リアリティに欠けるけれど、米澤穂信先生が描く小説の中でのリアルであればそれで良い、というようなことを読んだと思うのですが……。

 

 まぁともかく『小説の力』というのは、ここでは一旦置いておきますが(わたしの中では変わらず大切な解釈ですが)、それらを踏んまえて続けさせて頂きます。

 

 『虎と蟹、あるいは折木奉太郎の殺人』で、折木奉太郎(古典部シリーズの主人公)はこう言っています。

 

 一切の共犯関係がない物語を見たければ書を捨てて街に出るべき

 

 と。

 

 米澤先生ご本人も

 

 リアルさを追求すると、毎日別に何も起きないことや、何か事件が起きても蚊帳の外に置かれてしまうということがリアルになってしまいます。

 現実をそのままに見たければ現実を見ればいいわけで、なにも小説を読むことはありません。

 なので、リアルであることは求めませんが、上手に虚構を書くためにリアリティは必要です。

 現実はリアリティを無視しても「設定に無理がある」「ご都合主義だ」と言われなくて羨ましい限りです。

 

 と仰っています。

 

 つまり、物語という創作物に於いて、リアリティがないから駄作、などというのは突き詰めてしまえば、どんな娯楽作品も駄作、ということになってしまいますね。

 

 ドラゴンボールなんて実際にある訳がない!リアリティに欠ける!

 

 ゴムゴムの実なんてある訳がない!リアリティに欠ける!

 

 はいはい、じゃあ街にでも出て、好きなだけ現実のみを見ていらっしゃいな、というほかに手段がなくなりますw

 

 少し話が逸れますが、わたしの母親は、中々お堅い人物で、漫画なんてくだらない!というステレオタイプの人です。

 わたしも、兄も、そんなくだらないもの読んでないで勉強しなさい!とよく言われたものでした。

 

 そして、ステレオタイプなだけに見聞の狭い母は、小説に、そうしたものがあるとは知らなかったのです。

 ロードス島戦記やスレイヤーズ!など、わたしがまだ小さかった頃からあった、今で言えばライトノベルの走りの作品。

 

 そんな文庫本を読んでいると、『小説を読んでいる』という風に見えるので(小説を読んでいるのですがw)、偉い!

 となる訳ですね。

 絵がない漫画と同じ、胸躍るお話を読んでいることには変わりがないのですが、ステレオタイプの母親は「文学を嗜んでいる」と思ったのでしょう。

 

 や、でも、剣と魔法のお話だったりするんだよ、と言った時に、きっと落胆したかもしれませんが、それでも母は「活字に触れるのは大事なこと」と言いました。

 一辺倒なステレオタイプではなかったんだなぁ、と考えを改めたものでしたねw

 

 さて、話を戻します。

 

 何故物語にリアリティが必要なのかは、米澤先生が仰ったように、上手に虚構を書くため、です。

 

 例えばドラゴンボールだって、しっぽの生えた少年などいるはずもなく、ましてや後々、彼は異星人だったということが判ります。集中すれば戦闘力は何倍にも跳ね上がり、手からは〝気〟というビームが出ます。

 

 しかし、そんな彼でも殴られれば顔は腫れますし、血だって出ます。吹っ飛びますし、窮地に陥ったりもします。

 

 ワンピースでもそうですね。

 ゴムだから打撃は効きにくいものの、ダメージは受けていますし、刃物で斬られれば出血もします。

 

 少年漫画に例えるのも少しナンセンスだとは思えますが、そのリアリティさえ無視してしまうと、何でもありのトンデモ物語になってしまうだけで、それはもはや凶悪犯が実行した凶悪犯罪です。

 そんな犯罪に、共犯者になってくれる方は少ないでしょう。

 

 少年漫画であっても、最低限、命がけの勝負に負ければ死ぬ、というリアリティは確保されています。

 

 そして我々読者は『少年漫画とはそういうもの』だという、共犯者になります。

 

 それでええやないの。

 

 何故そうした非現実が当たり前の少年漫画には許されて、現代劇でそうしたことが許されないのか。

 

 程度や節操、というものがありますね。

 それが度を越さなければ良いのではなかろうか、と。

 

 だから、月経や排泄がないからリアリティがない、というのも実は大袈裟な話で、物語を楽しむ方達にはそうした人はいないと思えます。

 

 では何が問題なのか。

 

 それは恐らく、作品が読者の好みから外れてしまった場合。

 

 単純に好きではない展開になってしまったのなら、それは、作者側の『犯罪のお誘い』に読者が乗らなかったということになります。

 つまり共犯者たりえなかった。

 

 単純にそうならまだ良いのですが、好みではなかっただけで「リアリティがないから」という事象が、恐らく頻繁に発生しているんじゃないのかな、なんて。

 

 一つ例えますと、ミュージカル演劇。

 登場人物が、唐突に歌い出すアレに、リアリティを感じることができず、苦手だという方は、割りと多いと思います。

 

 それが好きな方達は、先程の時代劇やプロレスと同じで、そうしたもんだ、と理解されていることでしょう。

 

 でも、ミュージカルに触れたことがない方は、な、なんだぁ!?

(゚□゚;)

 

 と思うでしょうし、通常の演劇では有り得ない演出ですからね。

 

 苦手な方もいらっしゃることでしょう。

 

 昔いたんですよ。絵が自分の好みじゃないから、コイツ絵がヘタだから漫画もつまんない、っていう人が。

 絵の好みで物語の面白さが変わる訳ではないのにね。

 まぁでも、こうした、本質が見えていない人はまたもっともっと別問題ですので、ここで捨ておきましょうw

 

 例えば、わたしのお話では、楽器を始めて約三日でステージに立たされる子がいます。

 

 リアルな話で言えば、それはとんでもないことですw

 

 例えば、トライアングルや、幼児のお遊戯レベルのカスタネット等ならまだ話は判りますが、その子はキーボードです。

 

 けいおん!などのバンドアニメでも見かけますが、いわゆる「主人公スキル」で、基礎の一つも練習しておらず、センスだけで超絶速弾きギターソロが弾ける、しかも耳コピで。

 

 みたいなことはわたしだって幾らなんでもやりゃあしませんよw

 

 三日間みっちり練習して、コード譜も持ち込んで、経験者に、ここは触っちゃダメ、とかキーボードに付箋をいっぱい貼ってもらった上で、確かに、その子には凄いセンスがある、という描写はしました。

 

 でも実際は、LAメタルのような余り難しくない音楽の伴奏でコードを弾くだけ、という役割でした。

 

 必要最低限のコードが、例えばライブで5~6曲やるとしたら、まぁメジャーコード8種に時々マイナー、セブンスくらいのものでしょうし、メジャーコードだってたぶん8種全部は使わないでしょう。なのでいいとこ12種……でも多いくらいでしょうか。

 

 そしてその限られたコードだけを、コードチェンジの練習だけに当てれば、もしかしたら三日でも行けるんちゃうか!

 しかも暗譜しませんし、コード譜を見ながらなら、いけるんちゃうか!

 と思ったのです。

 

 わたしの中で、センスのある子がやれば、きっちり完璧ではなくとも、高校生バンドの急増ヘルプのレベルなら、最低限及第点くらいは行けるんちゃうか、とシミュレートしたんです。

 

 まぁ実際には無理だけどな(´・ω・`)

 

 でもそこが『小説の力』の一つなんじゃないかな、って。

 や、だって、変えようと思えば、3日じゃなくて2週間とかに出来るんですもん。流石に二週間あって、付きっ切りで経験者に教われば、コードのみを弾くくらいはできるようになります。

 

 でも、お話の中で、その子が僅か三日でステージに立った、という経験と事実が、必要だったんです。

 

 そりゃあおめー、そんな訳ねーよ!プゲラ

 

 とバンド者は言うでしょう。

 でも別のバンド者は、ギリいけっかもな、って言うでしょう。

 

 でもわたしのそのお話の中で、現実のリアルは関係ないんですよ。必要ないんです。

 実際、リアルにはできない、なんて、排泄を描写することと同じくらい要らないんです。

 

 少し話を変えますが、そうすると、今度はファンタジーやいわゆるバトルモノを書いた時。

 

 ある程度、共通の罪の意識()は持ってくださっている、と思います。

 

 ですが、背負い袋も持たない冒険者が長いこと旅をするなんてことはありませんし、帯剣もしていなかったのに、次の瞬間大男がそれをあたりかまわずまき散らし始めた(?)基、自分の背丈よりも大きな剣を持っていた、何てこともありません。

 

 そう、そこはしないんです。

 

 急に、今まで一度もそんな大きな力のこと、話さなかったよね!?(゚Д゚;)

 それは、省略か不備かって言ったら不備だよね!?というレベルのことは勿論ですがw

 ピンチの時に突然、奇跡の力が発現することはないのです。

 

 つまりそこは、なんというか、わたし的にダブスタな感じもするのです。

 

『これはそういうものと理解してね』

『委細承知、みなまで言うな』

 

 が、自分自身に通用しない。

 

 これはいかなることか。

 

 多分、やってしまえば、読者様は共犯者になってくれるであろうことを、わたしがやりたくない。

 

 こ、これは犯罪だぞ!手を染めるのか!

 

 とわたしから言ってしまうような感覚に捕らわれるのです。

 

 以前も書きましたが、その一つが、いわゆる、体術や剣術、槍術や杖術などで戦う者が繰り出す『ビーム』です。

 

 いつも引き合いに出してすまねぇとは思ってるんだがな、ロロノア。

 お前が「飛ぶ斬撃を知っているか?」と言った時のわたしの失望ったらどれだけ大きかったかは判るまいよ。

 

 剣で戦えよ!剣士が飛び道具!?しかもそれをよ!剣から飛ばすとか、有り得ねぇだろ!?

(゚Д゚;)

 

 と思ったものです。

 今ではあんまり思っていませんけれどねw

 

 わたしがやりたくないからやらない、でいいのです。

 

 でも、でもですよ。

 

 ここから先は何の確証もない。

 ですが先輩、オレは言わずにいられない!

 

 気に入らないだけでリアリティがない、と言っているのと何がちゃうねん!

(゚Д゚;)

 

 まさにダブスタ。ダブルスタ・スタローン。

 メンゴメンゴ、言ってみたかっただけ(^-^;

 

 でも、やらないのもまた、小説の力、というには、あまりに言い訳に過ぎませんか。

 

 わたしはどうも、ほんのちょびっとではありますが、そう思ってしまうのです。

 

 これは月経だの排泄物だのとはレベルが違う。

 

 まぁでも、やりたくないものはやらないんですけどね。

(´・ω・`)

 

 つまりは、わたしが今日書いた、創作上の共犯とダブスタって、とっても近いところにあって、自分でも訳が判らなくなるくらいの危ういものなのかもなぁ、と思ったのです。

 

 でも、それを支えているのが、わたしがどこかでミスリードしたのかもしれない()『小説の力』なのかもしれないな、って。

 

 とまぁ、荒唐無稽な屁理屈と偏執をだらだらと書いてきましたが、これはこれでなかなか楽しい考察……考察でも何でもないな、こんなものw

 

 でもまぁ『小説の力』というのは、作者それぞれに宿っているものだとわたしは思っています。

 信念や矜持、と言い換えても良いかもしれませんね。

 

 そんな、作者には大切な、強固たるものにさ、「リアリティがないからダメ!」なんて野暮天なこと言うもんじゃあないよ、ってな所なんですよ、きっとw

 

 作者から提示された犯罪に対して、共犯者になってくれたらいいのよ。

 あんまりにも無理筋で凶悪過ぎる犯罪は、断罪してもらってさ。

 

 ま、甘ったれた話でもありますけれどもねw

 

 そんな訳でね、こんなアホウなわたしでも、意外と()イロイロ考えて書いていたり、するんですよw

 

 時にわたしの文体というのは、情なのか理なのか、どっちなのでしょうね?

 

 わたしは情だと思っていますがw

 

 そんな訳で、では、また!(๑˃̵ᴗ˂̵)و