米国の友人ゲーツさんのお誘いを受け津田流砲術研究を始めたわけだが、興味深い歴史が次々と浮かび上がってきている。毛利高政は津田流砲術を習っていてそこでの誉を家元から貰っているほどであるからして、ほぼ一番弟子のようなものだったのだろう。そこに二代目伊達藩主忠宗が弟子入りして砲術を取得している。(先行研究はTodou455さんのブログにありますのでご参照ください。大発見!伊勢守流砲術伝書 | todou455のブログ 火縄銃ときどき山登り (ameblo.jp))伊達忠宗が毛利家より砲術を習ってから100年後の1729年に伊達藩留守居役谷田作兵衛が忠宗が受けた砲術が何流であるかを確かめるために毛利家に問い合わせたことがあったそうだ。その答えは毛利家では「御流儀」と尊称し、一般的には毛利高政公の伊勢守任命を以て「伊勢流」と呼ばれていたとした。歴史の流れからすると伊勢守流は世間一般に名を馳せた毛利高政公に対する敬称であり、身内ではお殿様の「御流儀」とされていたわけだ。

先生宅でのお稽古風景大学生の頃の筆者

 

 私は裏千家のお茶を過去12年ほど嗜んでいるが、外地でお茶を続けるにあたって自己流という物をやろうとは決して思わない。それは先ずはお茶を習った先生への尊敬と尊重、そしてお家元への尊敬と尊重に基づいた考え方である。私がお茶を初めて3年目位の頃に先生から、自分で何か新しいことがしたいとお思いでも、今のお茶を完了してからでなければ決してそのような事はしてはいけません。言われたことがある。呑み込みが弟子の中で最も早かったため、他のお弟子さんたちより早く次のお稽古へス進んでいたので、お灸を据えられたわけだ。今でもその教えのまま、基本が最も大事な練習となっている。門徒になるという事はこういう事なのだと私は認識している。

 

 さて、伊勢守流に話を戻そう。毛利家では伊勢流とは呼んでおらず、御流儀としていたという史実だ。お茶の門徒になった事を考えれば御流儀という言葉は恐らくお茶でいえば裏千家に等しい言葉と考えている。恐らく敢えて伊勢流と言わなかったという事は毛利高政が同じ様に師に対する尊敬の念を以て津田流という事言葉を使う事を憚り、また自己流であるという言い方も憚ったのでは無いかと考えている。私は伊勢流の砲術書を読んだことが無いので次の研究は伊勢流と津田流の比較考察に成ろうかと思う。

 

 Todou455さんの記事毛利高政の大鉄砲と津田流砲術 その1 | todou455のブログ 火縄銃ときどき山登り (ameblo.jp)によると毛利高政は若いころに津田流砲術を習得しその誉があったとされている。毛利高政は1559年生まれ、津田算長は1567年に逝去している。その家督は長男の津田算正1529年生まれが継いだ。弟の自由斎とともにこの二人が津田流砲術を継承したという事になっている。さて、毛利高政の年齢を考えると彼が若いころというと、1601年に佐伯藩が成立している事と、朝鮮での軍功伝説などを踏まえて、高政の若いころは朝鮮役の前のはずである。という事は10歳ごろから25歳くらいまでに津田流の門徒になっていたはずだ。とすると高政は津田算長か津田算正の門徒になっていた事になる。1578年に秀吉より明石郡をあてがわれる。年齢にして19歳の時だ。とすると、津田流鍛錬したのはこの頃か。もともとは尾張の出身であるから紀州は近くも遠くもない。

 

 日本大百科全書によると、津田流の砲術書が完成したのは永禄(えいろく)年間(1558~70)とされている。毛利高政が誕生した年とほぼ同じであり、彼がこの砲術を知るまでどのくらいの時間を要したのかはわからないが、津田算長は将軍足利義晴(あしかがよしはる)に鉄砲術を披露し、従(じゅ)五位下小監物のを叙された。(とされているが、足利義春は1550年に逝去しているため時期が合わない。恐らく息子の在職1565年の足利義輝の間違えではないだろうか。)

 

ここから原文ママ「従(じゅ)五位下小監物(こけんもつ)に叙せられる栄誉に浴した。算長に2子あり、長子を算正(かずまさ)、次子を明算(めいさん)(算長の弟とする説もある)といい、いずれも父の芸を継いで鉄砲術に優れた。なかでも明算は鉄砲の道に精進してついに玄妙に達し、後年自由斎と号した。彼はまた兄の嫡子重長(しげなが)の成長を待ってその奥儀を伝えたが、この門流を自由斎流という。[渡邉一郎]出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)」

 

という事で一体誰から高政が津田流砲術を習ったのかは、今のところ私の調査範囲では不明である。

 

 さて、火縄銃の台木研究を進めているうちに判明したことは火縄銃の流派は台木の形状から大別できるという事だ。仙台筒の台カブは佐伯にある伊勢流の巨大な銃砲の台カブが元になっている事は間違えないと思われる。では津田流砲術の台カブはどのような物なのだろうか。これが判明すれば伊勢流は津田流の支流で伊勢流が御流儀と呼んでいた事を考えると支流の中でももしかすると源流に近い流派なのかもしれない。伊達藩二世の忠宗が直接高政より教えを受けている事を考え、その末裔の火縄銃の台カブが伊勢流の台カブに似ている事を考えると、江戸初期の紀州筒は仙台筒に似ているはずなのだ。

 

写真は私が所有している分銅紋仙台筒上と家族伝来の仙台筒下、形がほぼ瓜二つなのは同流の証拠

 

 ここで大事なのは支流というのは家元への尊敬の念から自己流を基本的には憚る傾向にあると私は考える。裏千家でいえば家元が変わるたびに改善や新しいお点前が開発されている。家元は本流への変更や新しい試みをすることが出来るのだ。同じ文化を砲術に当て始めると、仙台に伝わった砲術や現在、仙台筒と呼ばれている火縄銃は安土桃山時代後期の紀州筒の意匠を残しているのではないかと推測する。大事なのは祖への尊敬の念を残すという事で台カブの形状は残しつつ、機能性の向上のためにカラクリが変更されているという風に仮定できる点だ。流派はカラクリよりも台カブに色が出るというのが私の仮説である。

 

既にかなり長くなってしまったので続きは明日にします。私が持っている写真が不足しているので次の日記は手書きのイラスト三昧になります。

 

参考文献

津田流(つだりゅう)とは? 意味や使い方 - コトバンク (kotobank.jp)

【刀剣ワールド】砲術とは/鉄砲術 (touken-world.jp)

砲術伝書と射撃術|todou455のブログ 火縄銃ときどき山登り (ameblo.jp)

砲術 : その秘伝と達人安斎実 著 51頁から58頁まで(天下に鳴る毛利伊勢守の砲術より)