平和安全法案の審議が参議院で連日、行われています。集団的自衛権などについては以前、このブログで書きましたが(2014年5月6日付)、参議院の特別委員会のメンバーに選ばれて以来、「賛成」「反対」双方の立場の方々から多くの意見をいただいているので、改めて私の考えを記したいと思います。

■抑止力をどう考えるか

 私の両親は戦後の生まれです。祖父は今年90歳で、時折戦争の話を聞くことがありますが、私は戦争を知らない世代だと自覚しています。地元を回っていると年配の方々から「山下君、戦争は悲惨だ。戦争の惨禍を繰り返さないことが君達政治家の最大の仕事だ」と言われます。

 戦争のない平和な世の中を次の世代に繋いでいくことが我々の責務です。戦争のリスクを減らし、日本国民の平和な暮らしを守っていくためには何が求められるのでしょうか。
    
 「自衛隊や日米同盟があるから、他国が日本を警戒して軍備を増強せざるを得なくなる」と言われる方もいます。外国の動向に関わらず、日本が自ら防衛費を減らし、自衛隊も日米安全保障条約も廃止に向けて動いていけばいいと。日本国憲法の前文でも「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、我らの安全と生存を保持しようと決意した」と宣言しています。では、外国を信頼し、日本が国の守りを一方的になくしていくことが平和に繋がるのでしょうか。

 最近では、ロシアがウクライナに軍事侵攻し、クリミア半島を奪い取りました。日本を含め各国はロシアに経済制裁を科しました。しかし、ウクライナはNATOに加盟しておらず、自らの軍隊を出してウクライナを守ろうとした国はありませんでした。G7などはクリミアをロシアの領土とは認めていません。外交や経済制裁などでロシアに再考を促していますが、力による現状変更に対抗できていません。東南アジアでも軍事力の格差を背景に係争地で既成事実を積み上げている国があります。

 翻って、日本の状況はどうでしょうか。冷戦が終わった時点では、日本の防衛費は東アジアで最大でした(米国・ソ連を除く)。現在は、中国の軍事費は公表されているものだけでも、日本の約5倍となっています(一方、米国はピーク時より減っています)。北朝鮮は日本列島が射程に入るミサイル実験をたびたび実施しています。

 外国軍用機が日本領空に接近し、日本の自衛隊機が緊急発進した回数はこの10年で7倍になりました。2014年度は943回。1日に3回もスクランブルした計算です。

 日本の安全保障環境は悪化しています。「外国が日本を狙うはずがない」と思われている方もいらっしゃるかもしれませんが、「こんなことがあるなんて・・・」となっては取り返しがつきません。地球上から武器がなくなることを念願しています。ただ現状では、防衛力による抑止で平和が維持されている現実に眼を背ける訳にはいきません。最善を祈り、最悪に備えるのが政治の役割です。

■法的安定性、合憲性

 平和を守るためには抑止力を高め、隙のない守りをすることが必要です。しかし、そのために何をやってもいい訳ではありません。先の大戦で多くの尊い命を失った反省を踏まえ、日本は憲法により大きな縛りを自らにかけています。

 日本国憲法には改正すべき点もありますが、現行憲法下ではその枠内で何ができるかを考えなければなりません。日本政府は、憲法9条の下で認められるのは我が国の自衛のための必要最小限度の実力だけと解しています。これまでは集団的自衛権は必要最小限を超えるとして、憲法上は認められないと説明してきました。

 国際環境は大幅に変化しています。そこを考慮しても集団的自衛権は憲法上、一切ダメなのでしょうか。集団的自衛権すべてでなく、自国を守るために限定したものは許容されるのではないかと議論してきました。その結果、日本と密接な関係の国が攻撃され、①わが国の存立が脅かされ、国民の生命、自由および幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険があり、②これを排除し、わが国の存立を全うし、国民を守るために他に適当な手段がない時、③必要最小限度の実力を行使することは認められると憲法の解釈を変更しました<新三要件>。

 「憲法解釈の変更は認められない」「解釈を変えると法的安定性が失われる」という批判もあります。確かに、2004年6月18日の政府答弁書は、「政府が自由に憲法の解釈を変更することができるという性質のものではない」「政府において、憲法解釈を便宜的、意図的に変更するようなことをすれば、政府の憲法解釈ひいては憲法規範そのものに対する国民の信頼が損なわれかねない」と述べています。ただ、答弁書は「諸情勢の変化とそれから生ずる新たな要請を考慮すべきことは当然」と強調した上で、「当否は個別的、具体的に検討されるべき」との見解を示しています。

 そもそも日本国憲法ができた当初は個別自衛権も政府として認めていませんでした。吉田茂首相は1946年6月26日の衆議院本会議で「戦争放棄に関する本案の規定は、直接には自衛権を否定してはおりませんが、(憲法)第9条第二項において一切の軍備と国の交戦権を認めない結果、自衛権の発動としての戦争も、また交戦権も放棄したものであります」と答弁しています。時の首相が、憲法9条は自衛権を認めていないと説明していました。

 その後、1950年に朝鮮戦争が勃発。冷戦の激化は日本にも影響を及ぼしかねない事態となりました。吉田茂首相は51年の衆議院平和安保条約特別委員会で「私の当時言ったと記憶しているのでは、しばしば自衛権の名前でもって戦争が行われたということは申したと思いますが、自衛権を否認したというような非常識なことはないと思います」と述べ、解釈を大幅に修正、変更しました。それから3年後、自衛隊が創設されました。

 時々の政権は国際環境の変化と日本国憲法の間で、国民を守るため難しい判断をしてきたのです。

 「集団的自衛権を一部であっても容認することは憲法の枠を超える、憲法違反だ」と仰る方は少なくありません。朝日新聞が行った憲法学者への調査では、回答のあった122人のうち119人が今回の法案を「憲法違反」もしくは「憲法違反の可能性がある」と答えています。しかし、この調査では自衛隊についても77人(63%)の憲法学者が「憲法違反」または「憲法違反の可能性がある」と回答しています。

 最高裁は砂川判決で自衛権を認めています。自衛隊の創設から60年以上たちましたが、最高裁が自衛隊を憲法違反と判断したことは一度もありません。研究者の中では様々な説、いろんな解釈はあるでしょうが、違憲か合憲かの最終判断をするのは最高裁です。

 今回の集団的自衛権の一部容認に関しては、1972 年の政府見解の基本的論理を維持しています。他国が行使しているような全ての集団的自衛権ではなく、密接な関係がある国への攻撃により、日本自体の存立が脅かされ、国民の命や自由、幸福を求める権利が根底から覆されるような事態になった時に限り、必要最小限度の実力を行使できるとした点で、9条の論理的整合性も法的安定性も保たれています。我が国、国民の存立のためというタガをはめており、専守防衛の原則も変わっていません。私は最高裁が違憲と判断することはないと考えています。

■徴兵制への懸念

 憲法の解釈変更を認めると、憲法の縛りが破られ、今後も解釈の幅がどんどん広がっていくという懸念もあります。そうした不安の最たるものが徴兵制でしょう。徴兵制は憲法18条「意に反する苦役に服させられない」に反し、明確に禁じられていると政府は明言しています。何度、否定しても「今回の法案で憲法解釈の変更を認めてしまえばいつの日か徴兵制にも踏み出すのではないか」と言う人がいます。果たして、そんなことが可能でしょうか。

 将来、時の政権が徴兵制を導入する法案を国会に提出し、万が一その法案が成立したとします。法律に基づき徴兵制が始まっても、召集令状を拒否する人が必ず出て来ると思います。その人達は司法に訴えるはずです。最高裁も徴兵制は違憲だと判断するのは確実でしょう。

 政府が法案を提出する時、そして憲法・法律を解釈する時、司法がどのように判断するかは考慮せざるを得ません。政府は自由に解釈を変えられる訳ではないのです。最後は最高裁が違憲、合憲を判断します。もしも政府が憲法に反するむちゃくちゃな法律をつくったら司法がストップをかけるのです。憲法が国家権力を縛るという立憲主義が貫かれています。

 穿った見方をする人は「最高裁は政権に都合の良い判断ばかりする」「政治問題は司法判断から逃げるのではないか」などと言われます。しかし、婚外子に対する遺産相続の民法の格差規定についても、衆参両院選挙における一票の格差についても、最高裁は政府や自民党の見解を否定し、違憲判決を出しました。党内では司法の判断に疑問の声もあがりましたが、政府・与党は違憲とされた法律を改正しました。たとえ政治的な問題であったとしても、憲法の枠を逸脱していると判断すれば、司法は歯止め役を果たすのです。

 今回の法案を成立させたら、いずれ徴兵制まで行ってしまうとの主張は論理の飛躍で、ミスリードだと思います。

 ただ、私は今回の法案への反対運動がおかしいとは思っていません。「戦争反対!」「政府は暴走するんじゃないのか」。そうした訴えが権力者に常に自戒を求め、権力を抑制的に使うように促すことになると考えています。国論は二分されていますが、日本と世界の恒久平和を願う気持ちは同じです。高い理想を持ち、様々な声に耳をすまし、冷静に現実を見つめていきたいと思います。