先日、ある障碍者(しょうがいしゃ)施設にお伺いした時のこと。そこの理事長がこんなことを仰っていました。「障碍者に関わる人だけが頑張るのではなく、皆が障碍のことを自分のことと思ってもらえるような社会になってほしい。障碍者が社会で当たり前に暮らせるような社会であってほしい」と。

 
強く心を動かされるとともに、大学時代に出された課題を思い出しました。どういう社会が理想なのか――。課題を出した教授に渡された本がジョン・ロールズの「正義論」という本でした。薄い記憶をたどると、その本には、自分が生まれる前の時点に戻り、自分がどういう状態で生まれるか分からない時、誰もが選ぶ社会が最も正義に適った社会である、と書いてあったように思います。

 つまり、大家族の末っ子に生まれるかもしれないし、核家族の一人っ子に生まれるかもしれない。お金持ちの家に生まれるかもしれないし、貧しい家に生まれるかもしれない。生まれる場所も私のように漁村なのか街中なのかも分からない。そう考えて社会の仕組みを選ぼうとすれば、能力があればどこまでもお金を稼げるが、弱い立場になったら福祉は全然ないといったリバタリアニズム(自由至上主義?)は取らないだろうし、稼いだ人のお金をすべて税金で取り上げ、全員で均等に分けるといった共産主義も選ばないのではないか。

 生まれる前の状態に戻らなくとも、誰もが明日、自分にどういう運命が待ち受けているかは分かりません。ずっと都会で生まれ育った人が社会人になって地方勤務を命じられ、人生観が変わったなんてことはよくあります

 
障碍者施設の理事長の話を聞いた時、社会は公正だろうか、正義に適っているだろうかと改めて疑問に思いました。「自分は障碍を持っていないし、家族にも障碍者がいないから障碍のことなんて関係ない」なんてことは言えないはずです。誰もが他者のことを自分のこととして思えるような社会をつくっていかなければいけないと思います。それが大震災以来、盛んに叫ばれている「絆」の意味でもあるのではないでしょうか