私は、子や孫たち、そして、まだ見ぬ将来世代のために、今を生きる世代としての責任を果たしたい――。
昨日(10月29日午後)の野田佳彦首相の所信表明を聞きました。時折、声が裏返るなど力のこもった演説でした。しかし、私には言葉1つ1つが胸に入ってきませんでした。私は新聞記者時代、野田首相官邸の担当をしていたこともあり、野田氏の演説、会見、答弁は何度も聞きました。胸に迫る思いをしたこともありました。久しぶりに野田首相の演説をじっくり聞いたこの日、首相の言葉に共感を覚えませんでした。なぜなんだろう。ふと考えた時、閣僚人事などをめぐり不誠実な発言を続けてきたのが原因だと思うに至りました。
野田氏の当意即妙の話術は有名で、人の心を掴む演説は政界でも指折りだと言われます。接戦だった1年前の民主党代表選では、「野田さんの演説を聞いて投票を決めた」と話す議員が何人もいました。私は投票直前の演説を会場のホテルで聞きましたが、有力候補と見られていた海江田万里、前原誠司両氏のそれより明らかに素晴らしく、野田氏勝利を確信しました。自身をドジョウに例えたくだりは記憶に残っている人も多いのではないでしょうか。
野田氏の演説の特徴を、社会言語学が専門の大学教授は「聞き手を中心におき、共感をつくりあげる」と評していました。24年間も朝、駅頭に立ち続けた経験から野田氏本人も演説に自信を持っているそうです。ただ、首相就任後は建前ばかりの不誠実な言論が増え、私は野田氏の言葉を真に受け取れないようになっていきました。
野田首相は内閣発足にあたり、マルチ商法業者との関係が取り沙汰されていた山岡賢次氏を消費者担当相に起用。防衛相に就いた一川保夫氏は自ら「私は安全保障の素人」と称し、自民党の石破茂政調会長や佐藤正久氏らの質問に防衛知識のなさを露呈しました。こうした人事を首相は「適材適所」と強弁し続けました。
ようやく今年1月の内閣改造で山岡、一川両氏を外し、野田首相は「最善かつ最強の布陣」と胸を張りました。しかし、一川防衛相の後任に充てた田中直紀氏も知識不足を度々追及され、首相は2度目の内閣改造という形で更迭しました。10月には3度目の内閣改造。今度は首相は「内閣の機能強化」と説明しました。「最善・最強」だった内閣を代えて「機能強化」とは、日本語として破綻しています。そして、機能強化の一翼を担うとされたのが初入閣の田中慶秋法相でした。
田中氏は旧民社党グループ(民社G)の大ベテラン。民社Gは人事の度に田中氏の入閣を求めてきましたが、それまではさまざまな理由で見送られていました。そうした経緯がありながらも野田氏は閣僚に起用。結果、外国人献金や暴力団との交際が報じられ、在任わずか23日で更迭しました。首相は任命責任を認めながらも、体調不良が原因と主張しただけで、この人事がどう「機能強化」だったかは釈明しませんでした。
さらに野田首相は、高齢を理由に退任を申し出て無役となっていた滝実氏を法相に再起用しました。しかし、再登板させた理由を説明する機会すら設けませんでした。建前だけの言葉を重ねるのも問題ですが、閣僚人事という非常に重要なことについて国民に何も説明しないのはもっと問題です。滝氏の再任から5日後の所信表明でもこの人事に触れませんでした。会社で例えるなら、取締役が不祥事で辞任し、定年を過ぎた元役員を急遽呼び戻す。しかし、社長は株主総会で何も語らない――。炎上は必至です。
滝氏の法相起用が悪いと言っているわけではありません。滝氏には何度も取材しましたが、極めてまじめで法務行政にも明るい方です。人物の問題ではなく、再登板をお願いせざるを得なかった事態を説明する責任が野田首相にはあるのではないかと思うのです。今後、首相は国会で野党の質問に答弁することにはなるのでしょうが、閣僚人事という極めて重大な案件について自ら説明しなかった事実は変わりません。発言しないことも政治判断です。その評価は国民がすることになります。よもや、死刑執行を所管する法相人事がどうでもいいとは思っていないと思いますが。
私のような若造が一国の宰相を論評することに眉をひそめる方もいらっしゃると思います。外国では野党の議員が首相や議長に最大の敬意を払う一方、日本の国会には首相に口汚いヤジを飛ばす議員がいることに悲しくなることもあります。党派や考え、理想が異なったとしても、三権の長の権威は守られるべきだと思います。しかし、政治家の言葉の重みについて考え、批判を承知で書きました。レトリックとしての言葉のうまさや人の心を掴む弁舌も重要ですが、政治の道を志す者として、真摯に誠実に言葉を発することが話術以上に大切だと常に心に留めておこうと思います。