代役をいかに行なうかが、その人の真価が問われるところ。
それを機にビッグチャンスを得ることもある。
そのビッグチャンスと言えば、昨年、
とある歌舞伎役者の事件がらみの問題があり、歌舞伎公演は自粛となった。
その代役を、人気も実力もあったが、
今ひとつメジャーになれていなかった片岡仁左衛門が務めると
連日大盛況。
完全に、その歌舞伎役者を食ってしまったような格好になった。
一躍、片岡仁左衛門の名を高らしめた。
だけども、それまでの文語体では、万民が読んで理解するという文体でないため、
法律の草案ひとつ書くことができないということになってしまう。
そこで、文学レベルどころか現代語の文体をつくるところから始まった。
その活路を西洋に眼を向けて、
森鴎外などの小説家が現れたりして西洋風の文体を創作したそうだ。
「トラ」大当たりと言ったところだろう。
どのような世界も、衆目を集めるところにいる人は、
陥穽(かんせい)と毀誉褒貶は、ついて回るもののようである。
一時的にしろ、去って行った人。
それを受け継ぎ成功につながった人がいる。
『灯台下暗し』の言葉の如く、
気づかなかったが、口語体の文体を持っていたのが落語だったと言う。
くだけた話口調で訴える力を持っている。
落語口調で小説などを書く小説家が現れたりした。
幸田露伴などを読んでみると、いかにも、
そこで落語家が話していると思うばかりの表現に満ちている。
落語が、日本文学を救ったという話を司馬エッセイの中に見つけた。
そう言えば、夏目漱石も落語好きだったようだ。
このような人間の浮き沈みする世界を見て『神曲』で有名なダンテは、
「人間の有用性は、木の葉のようなもの。
一枚の葉が散ると、すぐに他の葉があとに出てくる」
という言葉を残している。
ダンテは、イタリアの最高詩人としてあげられる人物。
これは、彼自身の実感から来た言葉のようだ。