🧵この記事はきっかけ(1)からの連続シリーズです

 

 

私が帰国してからも、サイとの手紙と毎日の電話のやり取りは続きました。頻繁にそうする事はできませんでしたが、その後もサイの休暇に合わせて台湾に戻り、サイの休暇が終わって総統府までサイを見送った後、台湾で少し就活してからまた帰国するというのを、確か2回やったように思います。

 

 

実は私の両親は、私が台湾の大学院に進学した事を快く思っていませんでした。台湾に行く時は、半ば家出のような形で日本を出て、母も私とは縁を切ると言っていました。地元の有名大学に進学して、地元の有名企業に就職して、そこで出会った男性と結婚する…そんな理想を母は描いていたのに、私が全然言う事を聞かないので(笑)、とてもショックを受けたのだと思います。

 

 

今振り返ってみれば、なぜ台湾に行って修士号を取りたいと考え、その後どうしたいと考えているのか等を上手く両親にプレゼンすればよかったのだと思いますが、なにせ当時は、私の頑固で気が強い性格に加えて、私も母もお互い今よりはるかに血気盛んでした(笑) 私は親の言いなりになりたくないと言うよりは、自分の事は自分で決めたいという思いが強かったので(というか、親のファンキーな教育方針の賜物でして…🤣これも長くなるのでどこかで書きます)、大学と大学院の学費・生活費・教科書代・交通費等、高校卒業以降諸々自分にかかったお金は、大学の入学金約30万円を除いては全て自分で払っていました。親の世話にはならない代わりに親の口出しは無用と思っていたのだと思います。それで、進学や進路についていちいち両親のお伺いを立てる必要はないと頑なに思っていました。とにかく私は、良くも悪くもとても頑固で気が強かったのです。

 

 

母は私と縁を切ると言いつつも、大学院卒業の時期が近づいてくるにつれ、毎晩怒りの国際電話をかけてきて、一体いつになったら帰国するつもりなんだと問い詰めてきました(笑)  私はそもそも帰国するつもりなど毛頭なかったのですが、日本人として日本でのキャリアがない事に対しては、確かに心にひっかかりがありました。当時語学講師をしていた際に、ビジネス会話を教えるにしても、自分には裏打ちされた実績がない事(ビジネスの場面でこのように対応したらいいと、経験に裏打ちされた指導ができない事)を生徒さんに対して申し訳なく思っていました。サイのクラスは、毎週火曜日と木曜日の19時から22時までのクラスでした。生徒さんは仕事帰りの社会人が圧倒的多数で、みなさん語学を可能性を広げる一つのツールとして持ち、そのツールをビジネスで活かそうとされている姿勢が感じられ、それに対して尊敬の念を持っていました。みんな私を一応「先生」として扱ってくれてはいましたが、私は生徒のみなさんの事を心から尊敬していました。私は当時24歳でしたが、これは当時本当に強く思っていた事です。

 

 

私も日本に戻って、ビジネスの世界でキャリアを積んでいきたい。そう思う反面、台湾はとても離れがたく、何とか台湾に残る方法はないかとも考えていました。台湾で両親が納得するような就職先が見つかり、尚且つ日本での就活に全て失敗すれば、両親も諦めないだろうかと、そんな事を心の底では考えていました。

 

 

結局、「台湾での就活」と言っても、日本から応募のプロセスだけ先に済ませておき、3, 4日の台湾滞在期間中に面接に行く程度の事しかしておらず、結果台湾で見つかった仕事は、台湾のショッピングチャンネル(テレビ番組)の司会と総合演出でした😂😂😂

 

 

私は普通にめっちゃ魅力的!やってみたい!と思いましたが、これに両親は憤っていました🤣🤣🤣

 

 

結局両親も納得する、外国の法律業務に特化した仕事に就く事が決まり、私もこれで数年は日本にいる事になるなと、しばらくは台湾への名残惜しさを手放さないといけないと思い始めました。

 

 

つづく