素晴らしい作品に出会った。

現在公開中の『沈黙 -サイレンス-』。


舞台は鎖国中の日本。
江戸初期、キリスト教が幕府からの弾圧に喘いでいた時代です。



僕は昔から史劇というか歴史を題材にした映画がとても好きなのですが、
今回は「歴史が遺した出来事」という枠を大きく超える作品でした。

と、勝手に自分の中で捉えているんだけれども(笑)。


原作は日本の遠藤周作さんというひと。
監督は『タクシードライバー』で有名な(これも名画ですね)マーティン・スコセッシ氏。
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舞台は日本ですが、飽くまで海外発信の作品。
洋画です。



ネタバレしてもなんなので内容は差し控えさせて頂きますが、
本作は3時間弱と、映画としては長尺のボリュームたっぷりの作品でした。


同時にその内容は目を塞ぎたくなるほどの悲惨な歴史の姿そのもの。
それも残酷さや哀しさを全面に出すよりも、当時のリアルな姿を映し出しているような。

悲惨な現実に、プラスもマイナスもせず伝えているかのような。
それが逆に残酷さや哀しさを強くしてるというか。




この映画はキリスト教と、日本という国家の戦いや価値観の相違が題材。
ですが作品そのもののテーマは、もっと違うところに存在するように感じました。
飽くまで僕個人は。



人は神に救いを求めたり、報いを求めたりして、祈ったり、信仰を深めます。

それが「宗教」だと、僕は思っています。
(飽くまで僕個人の考えです)


僕自身、何かの宗教において深く信仰している身ではありませんが、
僕が小さい頃、僕の両親たちは熱心に信仰する人間でした。
父と母は、キリスト教系の宗教団体にも所属していた時期もあります。



とはいえそれが今の僕に深く根付いている部分は殆どなく、
僕が宗教自体に深い教養や知識があるわけではありません。
それが良いとか悪いとかの話じゃないんです。




それでも人が「神」に救いを求めるのはわかります。


僕がこの映画を通して感じたのは、
本当の意味での「神」は自分自身の中にいるのではないか、という部分です。


人は祈ります。
人は救いを求めます。

全知全能の神に対して。


でも本当はそれは、自分自身への祈りのように思えたのです。
祈ることによって、本当の自分と会話していたのではないかと。

ではイコール「神」は「自分自身」ということになるんじゃないかと。

自分の中にある本当の答え、それが神だと思っ て救いを求めていたものなんじゃないかと。



なんだかブログに書くには崇高過ぎるテーマですが(笑)、僕にはこの映画を観て、そう感じとれるものがありました。



もちろん自分は様々な宗教を否定するつもりはさらさらありませんし、
否定できる裁量もありません。

むしろ強い気持ちを持って信仰している人たちのことを尊敬してさえいます。



僕も、「神様」がいてほしいなって思っています。
神様がどこかで自分を見守っていてほしいなって思って生きています。


でもどこかで、それを信じきれない自分がいるのも確かです。
苦しいときとかがあると特にね。
きっとそれが人生のジレンマなんでしょう。



僕は、人それぞれが自分の中の「神様」に出会えるまで、右往左往しながら生きてゆくべきなんだろうって、そう思います。

人生に答えなんてないかも知れませんが、
あるって勝手に思っていた方が、きっと楽しくなるからです。


だから自分の人生を救えるのって、本当の意味では自分しかいないんじゃないでしょうか。


おっと、また話が飛躍してきてしまいましたが(笑)。

兎にも角にも映画『沈黙 -サイレンス-』は、僕には考えさせることが山ほどある作品でした。

色んな角度から切り取れる映画でもあるので、
皆さんも是非。


でわ☆






裕地