2014/10/11 訪問BLOGはコチラ
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目次
※過去訪問重複箇所は赤字
本丸
本丸櫓門(重要文化財)と東橋
本丸御殿(重要文化財)
本丸庭園
天守閣跡
本丸櫓門跡と西橋
鳴子門(重要文化財)
桃山門(重要文化財)
内堀
本丸
縄張の形式は本丸の四方を二の丸で取り囲む「輪郭式」に分類されるが、本丸が中央より西寄りに配されている。
本丸は約150メートル四方のほぼ正方形であり、本丸と二の丸の間には内堀が造られている。
家康による創建時は現在の二の丸東側部分が本丸であり、本丸のみで構成される「単郭式」であった。
本丸は約150メートル四方のほぼ正方形であり、本丸と二の丸の間には内堀が造られている。
家康による創建時は現在の二の丸東側部分が本丸であり、本丸のみで構成される「単郭式」であった。
本丸櫓門(重要文化財)と東橋
二条城の本丸の正門が、本丸櫓門。
二の丸から内堀を東橋で渡ると、東に向いて建てられた本丸櫓門がある。
寛永3年(1626)、徳川家光が造営した本丸内に唯一現存する江戸時代の建物で、国の重要文化財に指定。
創建時には本丸櫓門の両側に多聞櫓が続き(石垣のみ現存)、本丸櫓門の2階と多聞櫓が廊下で結ばれていた。
貞享4年(1687)、2階廊下部分が取り壊され、宝永元年(1704)には橋も架け替えられている。
天明8年(1788)の天明の大火で、城内の櫓など多くの建築物を焼失しているが、 本丸櫓門は焼失を免れている。
本丸櫓門にはかつて内部が黒漆塗りで赤絨毯が敷かれた2階建ての木橋があり、天皇や将軍は二の丸御殿から橋の2階の廊下を通って、地上を歩くことなく本丸御殿と天守に行くことができた。
貞享4年(1687)に2階の廊下が取り壊され、宝永元年(1704)には1階の橋が架け直されている。
二の丸御殿溜蔵と橋の手前までの廊下橋の一部は昭和5年(1930)頃まで残っていたが、その後解体され、部材の多くは土蔵で保管されている。
「東橋」から見る「内堀」
北側から見る「本丸櫓門」と「東橋」
東側から見る「本丸櫓門」
「本丸櫓門」を「東虎口」方面から見る
「本丸櫓門」をくぐると両側に「多聞櫓跡」の石垣があり、
奥は「枡形虎口」になっている。
二の丸から内堀を東橋で渡ると、東に向いて建てられた本丸櫓門がある。
寛永3年(1626)、徳川家光が造営した本丸内に唯一現存する江戸時代の建物で、国の重要文化財に指定。
創建時には本丸櫓門の両側に多聞櫓が続き(石垣のみ現存)、本丸櫓門の2階と多聞櫓が廊下で結ばれていた。
貞享4年(1687)、2階廊下部分が取り壊され、宝永元年(1704)には橋も架け替えられている。
天明8年(1788)の天明の大火で、城内の櫓など多くの建築物を焼失しているが、 本丸櫓門は焼失を免れている。
本丸櫓門にはかつて内部が黒漆塗りで赤絨毯が敷かれた2階建ての木橋があり、天皇や将軍は二の丸御殿から橋の2階の廊下を通って、地上を歩くことなく本丸御殿と天守に行くことができた。
貞享4年(1687)に2階の廊下が取り壊され、宝永元年(1704)には1階の橋が架け直されている。
二の丸御殿溜蔵と橋の手前までの廊下橋の一部は昭和5年(1930)頃まで残っていたが、その後解体され、部材の多くは土蔵で保管されている。
「東橋」から見る「内堀」
北側から見る「本丸櫓門」と「東橋」
東側から見る「本丸櫓門」
「本丸櫓門」を「東虎口」方面から見る
「本丸櫓門」をくぐると両側に「多聞櫓跡」の石垣があり、
奥は「枡形虎口」になっている。
本丸御殿(重要文化財)
創建当時の本丸御殿は、現存する二の丸御殿にほぼ匹敵する規模をもっており、内部は狩野派の障壁画で飾られていたが、天明8年(1788)に起きた天明の大火によって焼失してしまう。
その後、本丸御殿は再建されなかったが、幕末に15代将軍・徳川慶喜の住居として再建された。
しかしこの御殿も明治14年(1881)に撤去された。
現在の本丸御殿は、京都御苑今出川御門内にあった旧桂宮邸の御殿を、明治26年(1893)から明治27年(1894)にかけて本丸内に移築したもので、国の重要文化財に指定されている。
平成29年(2017年)から「本丸御殿」の保存修理が行われている。
保存修理工事では、照明器具及び障壁画の修理や、唐紙の 新調をはじめ、建物の耐震性能を高めるため、鉄骨柱や耐震壁を設置している。
令和6年(2024年)完成予定。
「本丸東虎口」から見る「本丸御殿」工事の様子(写真正面)
その後、本丸御殿は再建されなかったが、幕末に15代将軍・徳川慶喜の住居として再建された。
しかしこの御殿も明治14年(1881)に撤去された。
現在の本丸御殿は、京都御苑今出川御門内にあった旧桂宮邸の御殿を、明治26年(1893)から明治27年(1894)にかけて本丸内に移築したもので、国の重要文化財に指定されている。
平成29年(2017年)から「本丸御殿」の保存修理が行われている。
保存修理工事では、照明器具及び障壁画の修理や、唐紙の 新調をはじめ、建物の耐震性能を高めるため、鉄骨柱や耐震壁を設置している。
令和6年(2024年)完成予定。
「本丸東虎口」から見る「本丸御殿」工事の様子(写真正面)
本丸庭園
本丸造営当初の庭園は、史料が不足している為、どのようなものであったか分かっていないが、二の丸庭園にひけをとらない庭園が存在していたと考えられている。
しかし、天明8年(1788)の大火の飛び火によって本丸御殿、隅櫓、多聞櫓などが焼失。
庭園も延焼して空地となっていたと思われる。
幕末には、本丸内に徳川慶喜の居室が建てられ、庭園は茶庭風に作られた。
居室は老朽化のため明治14年(1881)に撤去、庭園も取り壊されて空地となるが、明治26年(1893)から明治27年(1894)にかけて京都御苑内にあった旧桂宮邸の一部が移築されて、枯山水庭園が作庭された。
現在の本丸庭園は明治28年(1895)年5月23日、明治天皇が本丸に行幸された折、既存の枯山水風庭園の改造を命じ、約7ヵ月半の歳月をかけた末、明治29年(1896)に完成した芝庭風築山式庭園。
明治の中頃になると洋風の庭園が多く作庭されていることなどから、本丸庭園も少なからずその影響を受けていると考えられる。
庭園は東南隅に築山(月見台)を配し、芝生を敷き詰め、曲線的な園路を設け、石段(雁木)沿いにはアラカシ、ベニカナメなどを植樹し、所々に燈籠や庭石などが据えられている。
しかし、天明8年(1788)の大火の飛び火によって本丸御殿、隅櫓、多聞櫓などが焼失。
庭園も延焼して空地となっていたと思われる。
幕末には、本丸内に徳川慶喜の居室が建てられ、庭園は茶庭風に作られた。
居室は老朽化のため明治14年(1881)に撤去、庭園も取り壊されて空地となるが、明治26年(1893)から明治27年(1894)にかけて京都御苑内にあった旧桂宮邸の一部が移築されて、枯山水庭園が作庭された。
現在の本丸庭園は明治28年(1895)年5月23日、明治天皇が本丸に行幸された折、既存の枯山水風庭園の改造を命じ、約7ヵ月半の歳月をかけた末、明治29年(1896)に完成した芝庭風築山式庭園。
明治の中頃になると洋風の庭園が多く作庭されていることなどから、本丸庭園も少なからずその影響を受けていると考えられる。
庭園は東南隅に築山(月見台)を配し、芝生を敷き詰め、曲線的な園路を設け、石段(雁木)沿いにはアラカシ、ベニカナメなどを植樹し、所々に燈籠や庭石などが据えられている。
「本丸庭園」を抜けると、西南隅に「天守閣跡」があります。
天守閣跡
初代の天守は、慶長7年(1602)、大和国の郡山城から移築。
豊臣政権で五奉行のひとりだった増田長盛が関ヶ原の戦いで石田三成の西軍に与したため、高野山に追放、城内の建物は伏見城に移築されたが、天守はちょうど建造中の二条城に移され、慶長11年(1606)に落成している。
慶長16年(1611)に豊臣秀頼と徳川家康が二の丸御殿で会見しているが、その際にあった天守は、郡山城から移築の初代天守ということに。
徳川秀忠が将軍職を3代・徳川家光に譲り、大御所政治を開始すると、寛永元年(1624)、後水尾天皇の行幸を迎えるために大改築を開始。
本丸が再整備され、それまでの天守(旧郡山城天守)は淀城へと移され、それに代わって2代目天守として元和5年(1619)に廃城が決まった伏見城の天守が移築されている。
伏見城から移された天守は、五重六階の豪壮なものだったが、寛延3年(1750)に落雷により焼失し、以降、再建されることはなかった。
二条城の本丸には四隅に櫓が建ち、そのうちの西南隅のものが5階建ての天守、西北隅のものが3階建て、それ以外の2棟は、外堀沿いの5棟と同様に2階建てだった。
天守はあくまでシンボル的な存在だが、本丸の西南隅に位置すること、現存する二の丸の西南隅櫓の唐破風が西側に付けられていることから考えても、西側からの眺めを強く意識したもの(あるいは西を睨むもの)になっている。
「本丸」の内部から外周を見ると「雁木」が巡らされているのが分かる。
本格的な防御城郭であった。
石垣は「打ち込み接ぎ」
現在は展望台となっている。
広さは427平方メートル。
豊臣政権で五奉行のひとりだった増田長盛が関ヶ原の戦いで石田三成の西軍に与したため、高野山に追放、城内の建物は伏見城に移築されたが、天守はちょうど建造中の二条城に移され、慶長11年(1606)に落成している。
慶長16年(1611)に豊臣秀頼と徳川家康が二の丸御殿で会見しているが、その際にあった天守は、郡山城から移築の初代天守ということに。
徳川秀忠が将軍職を3代・徳川家光に譲り、大御所政治を開始すると、寛永元年(1624)、後水尾天皇の行幸を迎えるために大改築を開始。
本丸が再整備され、それまでの天守(旧郡山城天守)は淀城へと移され、それに代わって2代目天守として元和5年(1619)に廃城が決まった伏見城の天守が移築されている。
伏見城から移された天守は、五重六階の豪壮なものだったが、寛延3年(1750)に落雷により焼失し、以降、再建されることはなかった。
二条城の本丸には四隅に櫓が建ち、そのうちの西南隅のものが5階建ての天守、西北隅のものが3階建て、それ以外の2棟は、外堀沿いの5棟と同様に2階建てだった。
天守はあくまでシンボル的な存在だが、本丸の西南隅に位置すること、現存する二の丸の西南隅櫓の唐破風が西側に付けられていることから考えても、西側からの眺めを強く意識したもの(あるいは西を睨むもの)になっている。
「本丸」の内部から外周を見ると「雁木」が巡らされているのが分かる。
本格的な防御城郭であった。
石垣は「打ち込み接ぎ」
現在は展望台となっている。
広さは427平方メートル。
桃山門(重要文化財)
北の「鳴子門」と対になっており、南を向いて「本丸櫓門」への通路を塞いでいる。
寛永行幸時の絵図には大きな建物として描かれているが、それを改造して現在の門になったのではないかと考えられている。
そのため当初の姿や目的に不明な点が多い。
現存は長屋門で、中央に門を設け、両脇はそれぞれ門番所としている。
城内にあってこのように防御を厳重にするのは異例といえる。
写真手前は「二の丸庭園」の塀
南側から見る
「門番所」
北側から見る
「桃山門」から見る「本丸石垣」と「内堀」