別名 | ― |
所在地 | 京都府京都市中京区二条通堀川西入二条城町541 |
城地種類 | 平城 |
築城年代 | 慶長8年(1603)、寛永3年(1626) |
築城者 | 徳川家康、徳川家光 |
主要城主 | 徳川氏 |
文化財史跡区分 | 国指定史跡、国指定名勝、国宝6棟(二の丸御殿遠侍および車寄・式台・大広間・蘇鉄の間・黒書院(小広間)・白書院(御座の間)、重要文化財22棟(建造物)、1016面(美術工芸) |
天守の現況・形態 | 天守台のみ残る |
二条城は、徳川家康が慶長6年(1601)、京都における儀礼施設として築城に着手し、同8年(1603)には、ここで征夷大将軍拝賀の儀式を行っている。
このときの城は、現在の二の丸に相当する場所にあった。
その後改築が行われ、家光のとき、後水尾天皇行幸を迎えるため本丸御殿と総塗籠の白亜の五重天守がつくられ、今日の規模となった。
しかし、天守は寛延3年(1750)落雷で焼失。
現在、現在の二の丸御殿が徳川幕府の栄華を伝えるが、本丸御殿は市中の火災による類焼で失われたため、その場所に明治27年(1894)、京都御苑内の旧桂宮邸が移築されている。
平成6年には「古都京都の文化財」のひとつとして世界文化遺産に登録された。
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20240629/12/yucchi87/e8/5e/j/o2000266615457202703.jpg?caw=800)
目次
本丸
本丸御殿(重要文化財)
天守閣跡
本丸櫓門(重要文化財)
本丸石垣と西橋
二の丸
二の丸御殿(国宝)
唐門
二の丸庭園(国指定名勝)
東大手門(重要文化財)
二条城一口城主
100名城スタンプ
パンフレット
まとめ
本丸
本丸は約150メートル四方のほぼ正方形であり、本丸と二の丸の間には内堀が造られている。
家康による創建時は現在の二の丸東側部分が本丸であり、本丸のみで構成される「単郭式」であった。
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20240702/13/yucchi87/be/e8/j/o0800061315458462913.jpg?caw=800)
その後、本丸御殿は再建されなかったが、幕末に15代将軍・徳川慶喜の住居として再建された。
しかしこの御殿も明治14年(1881)に撤去された。
現在の本丸御殿は、京都御苑今出川御門内にあった旧桂宮邸の御殿を、明治26年(1893)から明治27年(1894)にかけて本丸内に移築したもので、国の重要文化財に指定されている。
豊臣政権で五奉行のひとりだった増田長盛が関ヶ原の戦いで石田三成の西軍に与したため、高野山に追放、城内の建物は伏見城に移築されたが、天守はちょうど建造中の二条城に移され、慶長11年(1606)に落成している。
慶長16年(1611)に豊臣秀頼と徳川家康が二の丸御殿で会見しているが、その際にあった天守は、郡山城から移築の初代天守ということに。
徳川秀忠が将軍職を3代・徳川家光に譲り、大御所政治を開始すると、寛永元年(1624)、後水尾天皇の行幸を迎えるために大改築を開始。
本丸が再整備され、それまでの天守(旧郡山城天守)は淀城へと移され、それに代わって2代目天守として元和5年(1619)に廃城が決まった伏見城の天守が移築されている。
伏見城から移された天守は、五重六階の豪壮なものだったが、寛延3年(1750)に落雷により焼失し、以降、再建されることはなかった。
二条城の本丸には四隅に櫓が建ち、そのうちの西南隅のものが5階建ての天守、西北隅のものが3階建て、それ以外の2棟は、外堀沿いの5棟と同様に2階建てだった。
天守はあくまでシンボル的な存在だが、本丸の西南隅に位置すること、現存する二の丸の西南隅櫓の唐破風が西側に付けられていることから考えても、西側からの眺めを強く意識したもの(あるいは西を睨むもの)になっている。
移築前、伏見城時代の天守
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20240702/14/yucchi87/03/b2/j/o1920139115458481719.jpg?caw=800)
二の丸から内堀を東橋で渡ると、東に向いて建てられた本丸櫓門がある。
寛永3年(1626)、徳川家光が造営した本丸内に唯一現存する江戸時代の建物で、国の重要文化財に指定。
創建時には 本丸櫓門の両側に多聞櫓が続き(石垣のみ現存)、本丸櫓門の2階と多聞櫓が廊下で結ばれていた。
貞享4年(1687)、2階廊下部分が取り壊され、宝永元年(1704)には橋も架け替えられている。
天明8年(1788)の天明の大火で、城内の櫓など多くの建築物を焼失しているが、 本丸櫓門は焼失を免れている。
本丸西橋は、本丸を囲む内堀の西側に架かる木製の橋。
東側とは違い櫓門は無い。
寛永3年頃に造られたもので、天明の大火の際、焼け残った唯一の櫓門で重要文化財に指定されている。
戦時には木橋を落として敵が渡れないようにし、さらに銅板で覆われた扉を閉めて火器に備えた。
二の丸
本丸と二の丸の間には内堀が、二の丸の周りには外堀が造られている。
二の丸は本丸の北と南にある仕切門によって東西に分かれている。(この西側部分を「西の丸」と呼ぶ資料もある)
家康による創建時は現在の二の丸東側部分が本丸であり、本丸のみで構成される「単郭式」であった。
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20240702/13/yucchi87/be/e8/j/o0800061315458462913.jpg?caw=800)
御殿は築地塀で囲まれ、唐門をくぐると二の丸御殿の玄関である車寄が見えてくる。
切妻造り、檜皮葺きの四脚門で、唐破風をのせている。
両横は、二の丸御殿南側築地塀。
平成25年の復元(修復)工事で、長寿を意味する「松竹梅に鶴」、縁起の良い組み合わせで長寿吉祥の象徴である「牡丹に蝶」、聖域を守護する「唐獅子」、雲をよぶ龍と風を起こす虎とが対峙する「龍虎対決」(風雲に遭う覇者の姿)など、豪華絢爛な極彩色の彫刻が蘇っている。
装飾の「垂木鼻先金具」は天皇家の菊紋だが、修復工事で飾金具を取り外した際に、菊紋の下から葵紋が発見され、江戸時代には徳川家の葵紋、明治時代になってその上に菊紋が重ねられたことも判明している。(破風飾金具の紋も同様)
明治17年、二条城が天皇家の別荘「二条離宮」となった際に、付け替えられたものだと推測されている。
唐門は、寛永3年(1626)の後水尾天皇行幸を前に、3代将軍・徳川家光が造営を命じたもので、天守、行幸御殿、本丸御殿なども同じ時期に完成している。
池を中心とした書院造庭園であり、庭には3つの島を置き、4つの橋を架け、西北隅に滝を落とし、池の汀に多くの岩石を配した景観は、変化に富んで秀麗であり、豪壮な趣がある。
庭園は大広間の西、黒書院の南に位置し、主として大広間からの観賞を想定して造られているが、寛永3年の後水尾天皇行幸の際、行幸御殿が庭園の南側に建造されたことから、南方からの観賞も配慮して、庭園南部の石組に変更を加えた形跡が見られる。
作庭年代については、記録や作風から推察して慶長8年(1603)の二条城築城の際にその建築に調和させて造営されたもので、後水之尾天皇の行幸の際に、数多くの名園を手がけた小堀遠州によって一部改修が加えられ、今日に至ったものと考えられる。
桃山末期から江戸初期に大成された書院造りの大建築に伴う庭園の特徴をよく示しており、現存する歴史的庭園の中でも最も優れた作品の一つに数えられている。
二条城の正門。
現存する東大手門は江戸時代初期の寛文2年(1662)頃の築と推測され、国の重要文化財に指定されている。
築城当時は現在のように城門の上に櫓を載せた2階建ての櫓門だったが、寛永3年(1626)、後水尾天皇の二条城行幸時には天皇を2階から見下ろさないようにとの配慮から、一重の門に建て替えられている。
寛文2年(1662)、櫓門に戻された際の建築物が現存していることに。
現在の東大手門は、本瓦葺き、入母屋造りで、棟には鯱が飾られている。
正面の出格子窓には、敵を真上から攻撃するための「石落とし」が備えられ、実戦的な配備がされている。
東大手門は、外堀を挟んで城の東側、堀川通に面しているが、 二条城にはもうひとつ、竹屋町通に面した北側の北大手門があり、ともに国の重要文化財に指定されている。
築城400年記念大改修に向けての募金。
城内では一口200円から可能。
一口200円で二条城モチーフの缶バッチが貰える。
尚、これは小口募金の為に名前は残らないが、1万円以上寄付した場合は協力者名簿に掲載されたり(希望者のみ)、様々な特典がある。
【住所】 京都府京都市中京区二条通堀川西入二条城町541
【電話】 075-841-0096
【入城時間】 8:45~16:00(閉城17:00)
【二の丸御殿観覧時間】 9:00~16:00
【料金】 一般600円、高・中学生350円、小学生200円
【休城日】 12月26日~1月4日、1、7、8、12月の毎週火曜日(休日の場合は翌日)
※ 2014年10月11日時点の情報です
歴史が変わった場所なんだなと、感慨深く見学しました。
凄く広いですね。
二の丸御殿内は撮影禁止なので目に焼き付けましたが、絢爛豪華な装飾が流石徳川家、将軍にふさわしい御殿でした。
帰り、少しでも二条城改修の力になればと「一口城主」、気持ちばかりの募金を。
京都府コンプリートです☆