名古屋城 -徳川氏が西をにらんで築いた東海の巨城-

 

 

別名 蓬左城、楊柳城、柳が城、亀尾城、鶴が城、金城、金鱗城、金鯱城 
所在地 愛知県名古屋市中区本丸1-1 
城地種類 平城
築城年代 慶長15年(1610)
築城者 徳川家康
主要城主 徳川氏
文化財史跡区分 国指定特別史跡、国指定史跡、重要文化財5件ほか本丸御殿障壁画
天守の現況・形態  層塔型 五重七階地下一階 鉄筋コンクリート造(再建) 
  



 

名古屋城が築かれた地は元々は「那古野」と呼ばれており、今川氏の支城があった。

ここに徳川家康が慶長15年(1610)、西国の外様大名らに大々的な天下普請を命じた。

名古屋城の築城は大阪城の豊臣秀頼を牽制する意図があり、広大な縄張りに、天守・小天守を中心に多くの多聞櫓と櫓を建て並べた最大級の要塞が完成した。

五重の天守には金の鯱が載って評判となり、「尾張名古屋は城でもつ」と謳われるまでになった。

明治になって取り壊されそうになったが、ドイツ公使のはたらきかけなどにより保存されることになった。

しかし惜しくも第2次世界大戦で天守・小天守、御殿とも焼失。

天守は昭和34年(1959)鉄筋コンクリート造で再建され、現在は本丸御殿の復元計画が進行中である。





 

 

 

 目次

 

  西の丸跡

 正門


 

  御深井丸跡

 天守礎石

 石棺式石室

 

 

  本丸跡

 天守

地階 黄金水井戸構造模型

1階 名古屋城全体模型、本丸御殿障壁画

2階 企画展示室

3階 城内・城下の暮らし

4階 武器武具、石垣コーナー

5階 名古屋の歴史、実物大の金鯱模型

6階 機械室

7階 展望台、売店

 

 剣塀

 本丸御殿

玄関

表書院

 

 西南隅櫓(重要文化財)

 東南隅櫓(重要文化財)

 本丸表二の門(重要文化財)

 本丸東一の門跡

 旧二の丸東二の門(重要文化財)

 不明門

 清正石

 鵜の首

 大手馬出堀

 

 

 

西の丸跡

本丸の南西に位置している。

南側に枡形門である榎多門があり、三の丸とつながっている。

櫓は南西隅に未申隅櫓、北西隅に月見櫓が建てられていた。

南面には多聞櫓があり、それ以外は土塀で固められている。

 

正門
名古屋城の正門は明治44年(1911)に江戸城の蓮池御門が移築されたが、昭和20年(1945)の空襲で焼失したため、昭和34年(1959)に天守とともに、ほぼ昔どおりの外観で再建された。

なお、江戸時代には榎多御門と呼ばれる西の丸の門があったが、明治24年(1891)の濃尾大地震で大破したため、江戸城の蓮池御門が移築された。
 








現在この門が「正門」と呼ばれている理由は、名古屋城の本丸付近が明治維新後に「離宮」になっていたためで、「準皇居」だったことから「正門」と名づけられた。

 

 

 

御深井丸跡

本丸の北西に位置している。

本丸と不明門枡形でつながり、西の丸と透門枡形でつながっていた。

御深井丸東部には塩蔵構があり、枡形の塩蔵門を配置。

水堀の外堀に面する北側に、西北隅櫓と弓矢櫓が建てられていた。

塩蔵構以外の曲輪の外周は堀で囲まれているが、西面と北面の一部は多聞櫓となっている。

 

天守礎石
昭和20年(1945)に焼失した旧国宝天守の礎石。

地階穴蔵の地盤の上に置かれており、巨大な天守を支えていた。

長く焼け跡に残っていたが、天守閣再建にあたり現在地に移し、かつての敷設状況を再現した。
 

 

 

石棺式石室
島根県松江市山代町にあった団原古墳の石室で、本来は床石があって、手前に羨道(石室への通路)を備えていた。

古墳時代後期のもので出雲地方独特の横穴式石室である。
 

 

 

 

本丸跡

本丸には三つの門がある。

南の面と二の丸側の搦手には二重の門で構成された枡形を設けて、その外側に総石垣の巨大な馬出を配置することで、簡単には侵入できない構造とした。

本丸表門枡形外側の大手馬出は特に巨大なもので枡形に加えて多聞櫓が巡らされた強力な馬出だった。

北側の御深井丸との境には不明門枡形があるが、開かずの門とされていた。

本丸の四隅に天守と三つの隅櫓が設けられ、それぞれ多聞櫓などでつながっていた。

 

天守
天守は本丸の北西隅に位置し、形式は大天守と小天守を橋台によって連結した連結式層塔型である。

大天守は層塔型で5層5階、地下1階、天守台19.5メートル、建屋36.1メートル、合計55.6メートル。

小天守は2層2階、地下1階で、大天守の関門の役割をした。 

小堀政一を作事奉行、中井正清を大工棟梁とし、さらに大工頭に岡部又右衛門、天守台石垣は加藤清正という当代一流の築城家の手になるものであった。

 

地階
●黄金水井戸構造模型

●金鯱模型

 

 
1階
●名古屋城全体模型





●本丸御殿障壁画、御殿模型など





鯱瓦

 

 
2階
●企画展示室


 

3階
●城内・城下の暮らし


 

4階
●武器武具

●石垣コーナー

石垣の刻印(刻紋)





●籠乗り体験

 


 

5階
●名古屋の歴史





●実物大の金鯱模型

金鯱に乗って記念撮影が出来る。

 

 



金鯱設置写真





●石引き体験


 

6階
●機械室


 

7階
●展望室、売店


最上階から見る景色。

 

 

剣塀
大天守と小天守を連結する櫓台は、高い土塀で囲われ、塀の軒に鋭い槍の穂先がぎっしりと並べられている。

大天守への敵の侵入を防ぐもの。
 

 

 

本丸御殿
城主(藩主)が居住する御殿だったが、元和6年(1620)将軍上洛時の御成専用に改造された。

以後、藩主は二の丸御殿に居住した。

殿舎等はすべて第2次世界大戦の空襲で失われたが、内部にあった障壁画のうち移動可能な襖などは取り外して倉庫に収められていたため焼失を免れ、戦後重要文化財に指定、保存されている。


戦災で失われた本丸御殿を、詳細な史資料のもと復元する計画で、3期に分けて公開。

平成21年(2009)に工事着手。

平成25年(2013)5月29日より「玄関」「表書院」が一般公開された。(第1期)


 

玄関
玄関は、正規の来客がまず通される建物で、床や違棚が備えられていた。

周囲の壁や襖には勇猛な虎が描かれ、客を驚かせた。



●車寄




●一之間

 

 

表書院
正規の謁見に用いられた広大な建物。

上段之間(15畳)、一之間(24畳半)、二之間(24畳半)、三之間(39畳)、納戸之間(24畳)の5部屋からなり、江戸時代は大広間と呼ばれていた。

障壁画は、松、桜、雉子などの華やかな花鳥図。




●上段之間





 

 

西南隅櫓(重要文化財)
西南隅櫓は、本丸の南西隅に位置し、慶長17年(1612)頃に建造された。

別名、未申隅櫓とも呼ばれる。

建物の規模は大きく、東西約11.8メートル、南北約13.5メートル、高さ約14.1メートル。

一重目の屋根を付けていないため、外から見ると二重櫓に見えるが、内部は3階櫓となっており、非常に珍しい形式。

屋根は上下四方に屋根や庇を設けた入母屋造、平瓦と丸瓦を組み合わせた本瓦葺きで、2階西面と南面には、三角形の小型の屋根である千鳥破風と石落としが設けられている。

大正期、当時の管理者であった宮内省により修復されたため、菊紋の鬼瓦、棟瓦が用いられている。
 

 

 

東南隅櫓(重要文化財)
本丸の南東隅に位置し、慶長17(1612)頃に建造された。

鬼瓦などには徳川家の家紋である葵紋が用いられている。

別名、辰巳隅櫓とも呼ばれる。

西南隅櫓と同じく、外観二重、内部3階の構造。

2階東面と南面には、三角形の小型の屋根である千鳥破風と敵を攻撃するための石落としが、3階東側の屋根の軒には、弓なりになった軒唐破風という格式の高い装飾が施されている。
 

 

 

本丸表二の門(重要文化財)
本丸大手の外門で、内門である表一の門とともに枡形を形成していた。

本瓦葺の高麗門で、軒回りは漆喰塗り込めとし、柱や扉に金具を打ち付けている。

別名、南二の門。
 

 

 

本丸東一の門跡
本丸搦手の内門で、外門である本丸東二の門とともに枡形を形成していた。

入母屋造・本瓦葺の堅牢な二階建てであるが、昭和20年(1945)の空襲により焼失した。
 

 

 

旧二の丸東二の門(重要文化財)
本来は東鉄門という二の丸東の枡形外門で、現在の東門の東側にあった。

昭和38年(1963)二の丸に愛知県体育館が建設されるにあたり、解体され、昭和47年(1972)に現在地(本丸東二の門跡)に移築された。
 

 

 

不明門
土塀の下に設けられた門。

本丸北側と御深井丸をつなぐ門であるが、厳重に施錠され「あかずの御門」と呼ばれていた。

左右には槍の穂先を並べた剣塀が続いている。

昭和20年(1945)に焼失し、昭和53年(1978)に復元された。
 

 

 

清正石
名古屋城で最大の石垣石材。

本丸搦手枡形の石垣は黒田長政の担当であったが、巨石であるがゆえ、普請の名手加藤清正が積み上げたと伝えられ、清正石と呼ばれてきた。
 

 

 

鵜の首
鵜の首とは、堀を内側に入れこみ道幅を狭くした部分。

本丸の周囲には、大手・搦手など5ヶ所に鵜の首があり、本丸への敵の侵入をはばんでいた。