日本100名城 50.彦根城 再々訪【後編】はコチラ
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目次
※過去訪問重複箇所は赤字
山崎口御門(以下絵図表記名)
黒御門
裏御門
表御門
大手口御門
佐和口御門
京橋口御門
船町口御門
長橋口御門
外堀跡
切通口御門
油懸口御門
森川許六屋敷跡
高宮口御門
高札場跡
長松院
外堀土塁
まとめ
彦根城の内堀に架かる門(山崎口御門、黒御門、裏御門、表御門、大手口御門)についてまとめています。
山崎口御門(山崎御門跡)
裏御門(裏門跡)
表御門(表門跡)
縄張り変更により正面となった表門。
内堀に架かる橋の内側に枡形を設け、橋に接して高麗門、内側に櫓門を建てて両者を瓦塀が囲む厳重な構え。
現在架かっている橋は、明治初期の写真や当時の文献を参考に、3年の歳月をかけ平成16年2月完成した。
門が存在した頃(左下)
(2020.2.21撮影)
京橋口御門(京橋口門跡)
京橋口門は、第2郭の重臣屋敷と第3郭の本町筋の間にあり、内堀の大手門にも通じる要所に位置している。
門の内側に設けられた枡形には、かつて中堀に接して高麗門(冠木御門)があり、その内側を鈎の手に曲げて櫓門が築かれていた。
櫓門は門の上に2階2重の櫓が乗り、両側に多聞櫓が伸びている。
門の形式としては最強の桝形で、重厚な構えとなっていた。
この多聞櫓の内側には、雁木という長大な石の階段が造られている。
門の内側に設けられた枡形には、かつて中堀に接して高麗門(冠木御門)があり、その内側を鈎の手に曲げて櫓門が築かれていた。
櫓門は門の上に2階2重の櫓が乗り、両側に多聞櫓が伸びている。
門の形式としては最強の桝形で、重厚な構えとなっていた。
この多聞櫓の内側には、雁木という長大な石の階段が造られている。
御城下惣絵図に描かれた「京橋口」
京橋口門外観(明治9年)
(2020.2.21撮影)
船町口御門
長橋口御門
彦根城の「外堀」についてまとめています。
彦根城の外堀は埋め立てられ当時の姿を見ることは出来ません。
かつての外堀には切通口、油懸口、高宮口、池洲口、中薮口、長曽根口、松原口の7つの城門がありました。
外堀跡
江戸時代の外堀跡。
かつては、現在の車道を含んだ堀幅があり、満々と水を湛えていた。
江戸時代には、この外堀はさらに城下町の北東までまっすぐに伸びて御船入で松原内湖につながり、さらに琵琶湖に通じていた。
後に戦後のマラリア対策により埋め立てられて道路となり、ここの他数ヶ所残っているだけ。
かつては、現在の車道を含んだ堀幅があり、満々と水を湛えていた。
江戸時代には、この外堀はさらに城下町の北東までまっすぐに伸びて御船入で松原内湖につながり、さらに琵琶湖に通じていた。
後に戦後のマラリア対策により埋め立てられて道路となり、ここの他数ヶ所残っているだけ。
切通口御門
彦根城の外堀には7つの口が開き、切通口御門は、大坂夏の陣(1614年)が終わった後の元和年間(1615~24年)に、城の風格を示すため行われた元和普請で造られた。
藩主の井伊家が参勤交代の際に通る特別な門だったといわれている。
中山道から分かれる鳥居本宿の南にある「彦根道」が切通道とも言われたことから「切通口」といわれている。
石垣の上には櫓があったと考えられ、本丸表口の太鼓門櫓(国重要文化財)とほぼ同様の建築様式と推定される。
彦根城を測量した「御城下惣絵図」(江戸時代後期)にも描かれており、彦根城東側の出入り口として、外堀(3.8キロ)上にあったとみられている。
藩主の井伊家が参勤交代の際に通る特別な門だったといわれている。
中山道から分かれる鳥居本宿の南にある「彦根道」が切通道とも言われたことから「切通口」といわれている。
石垣の上には櫓があったと考えられ、本丸表口の太鼓門櫓(国重要文化財)とほぼ同様の建築様式と推定される。
彦根城を測量した「御城下惣絵図」(江戸時代後期)にも描かれており、彦根城東側の出入り口として、外堀(3.8キロ)上にあったとみられている。
油懸口御門
直角に折れ曲がっているのが江戸時代のルート。
現彦根商工会議所付近。
現彦根商工会議所付近。
森川許六屋敷跡
森川許六は、本名を森川百仲といい、禄高300石。
通称を五助、五老井・菊阿佛・無々居士を号した彦根藩士で、代々、武術指南役を務める武術の達人だった。
(NTT付近)
「許六」の名は、彦根藩士としてではなく「蕉門十哲」の一人としてよく知られている。
「蕉門十哲」とは、芭蕉の門人の代表的な10人のことをいう。
「許六」の号は「六芸に秀でたる才人」と芭蕉がつけたといわれている。
事実、井伊家菩提寺龍潭寺の襖絵(56面)は許六の作と伝わり、剣は正法念流、槍は宝蔵院流の奥義をきわめ、俳諧、書、画、篆刻、彫刻、能、茶にいたるまで多才であり、俳諧は芭蕉が師となり、絵は許六が師となったという逸話も残っている。
許六の晩年は病床にあり、五老庵で、諷吟、編著に情熱をかたむけ、一日として筆を置くことはなかった。
通称を五助、五老井・菊阿佛・無々居士を号した彦根藩士で、代々、武術指南役を務める武術の達人だった。
(NTT付近)
「許六」の名は、彦根藩士としてではなく「蕉門十哲」の一人としてよく知られている。
「蕉門十哲」とは、芭蕉の門人の代表的な10人のことをいう。
「許六」の号は「六芸に秀でたる才人」と芭蕉がつけたといわれている。
事実、井伊家菩提寺龍潭寺の襖絵(56面)は許六の作と伝わり、剣は正法念流、槍は宝蔵院流の奥義をきわめ、俳諧、書、画、篆刻、彫刻、能、茶にいたるまで多才であり、俳諧は芭蕉が師となり、絵は許六が師となったという逸話も残っている。
許六の晩年は病床にあり、五老庵で、諷吟、編著に情熱をかたむけ、一日として筆を置くことはなかった。
高宮口御門
中山道の高宮方面から彦根城下に入る彦根道に通じるとともに、朝鮮人街道にもつながる重要な口だった。
また高宮口を入り、北の切通口まで城下町をまっすぐ伸びる通りは「内町大通り」と呼ばれた彦根城下のメインストリートだった。
城外から城下に入るには、まず外堀に架かる土橋を渡り、2度折れ曲がって城下に入った。
外堀の内側には幅が8間~9間(14.4メートル~16.2メートル)もある「藪御土手」が巡り、折れ曲がる箇所には「御門」や「御番所」を設けるなど、城を守るための備えが施されていた。
また高宮口を入り、北の切通口まで城下町をまっすぐ伸びる通りは「内町大通り」と呼ばれた彦根城下のメインストリートだった。
城外から城下に入るには、まず外堀に架かる土橋を渡り、2度折れ曲がって城下に入った。
外堀の内側には幅が8間~9間(14.4メートル~16.2メートル)もある「藪御土手」が巡り、折れ曲がる箇所には「御門」や「御番所」を設けるなど、城を守るための備えが施されていた。
高札場跡
伝馬町の中央、蓮華寺前の角には高札場があった。
高札場には、高さ4.2メートルの屋根組の下に、幕府から出された法令を記した駒型の大きな木札(高札)が掲げられていた。
伝馬町の馬持や人足は、公用の荷物などを運ぶだけでは生計を立てることができず、私的な荷物などを隣の宿場まで運ぶ仕事もしていた。
後者の費用を駄賃といい、その費用を細かく定めたものを駄賃札という。
高札場には、高さ4.2メートルの屋根組の下に、幕府から出された法令を記した駒型の大きな木札(高札)が掲げられていた。
伝馬町の馬持や人足は、公用の荷物などを運ぶだけでは生計を立てることができず、私的な荷物などを隣の宿場まで運ぶ仕事もしていた。
後者の費用を駄賃といい、その費用を細かく定めたものを駄賃札という。
長松院
長松院は山号は萬年山、曹洞宗の寺院。
故事によると善利川(現芹川)の中州において、慶長7年(1602)2月1日、井伊直政が42歳で死去し、生前より遺言されていたこの地において火化し骨灰遺物を埋葬、塚を建立しその傍に廬を建てたのが始まり。
3月8日には甲斐国より禅僧として名高い貴山永胤大和尚を開山に迎え、井伊直継によって6月28日禅堂をつくり祥壽院(井伊直政公の戒名 祥壽院殿清涼泰安大居士より)とし後に萬年山長松院と改め現在に至りる。
なお、萬年山の萬は直政が徳川家康の小姓をしているときの名前「萬千代」より、また長松院の松は幼名「虎松」よりとられた。
故事によると善利川(現芹川)の中州において、慶長7年(1602)2月1日、井伊直政が42歳で死去し、生前より遺言されていたこの地において火化し骨灰遺物を埋葬、塚を建立しその傍に廬を建てたのが始まり。
3月8日には甲斐国より禅僧として名高い貴山永胤大和尚を開山に迎え、井伊直継によって6月28日禅堂をつくり祥壽院(井伊直政公の戒名 祥壽院殿清涼泰安大居士より)とし後に萬年山長松院と改め現在に至りる。
なお、萬年山の萬は直政が徳川家康の小姓をしているときの名前「萬千代」より、また長松院の松は幼名「虎松」よりとられた。
外堀土塁
2015年の外堀の発掘調査で、江戸時代と見られる土塁が見つかった。
彦根城の外堀は彦根城の防御施設として、築城後の元和元年(1615)以降に芹川(当時は善利川)の支流を使って彦根藩単独で整備が始まり、中堀の整備を終えた同8年以降に完成。
旧松原内湖から彦根城を囲み同内湖に戻る総延長約3.4キロの長さで、堀の城内側には土塁が築かれた。
また外堀近くには寺院が点在していて、戦時には彦根城を防御する軍事拠点として使われる予定だったとされる。
外堀はマラリア対策として昭和20年代後半までに埋められ、土塁が現存するのは中央町のみ。
堀を埋める際に市道を除く部分に土塁が使われた。
中央町のみ残っているのは、旧外堀が近くの銭湯(山の湯)の敷地内の池として活用されたため、その場所のみ土塁が使われずに残ったという。
中央町のほか、土塁の基底部分が長曽根口や蓮華寺(中央町)裏手、圓常寺(城町)の竹薮に残っている。
中央町の土塁の大きさは、高さが城内側で5.5メートル、城外側で6メートル以上、南北の幅が23メートル、東西の幅が底辺18メートル・上部4メートルの台形型。
防御面から城内側と比べて城外側の斜面が急になっている。
2019年に廃業した山の湯
彦根城の外堀は彦根城の防御施設として、築城後の元和元年(1615)以降に芹川(当時は善利川)の支流を使って彦根藩単独で整備が始まり、中堀の整備を終えた同8年以降に完成。
旧松原内湖から彦根城を囲み同内湖に戻る総延長約3.4キロの長さで、堀の城内側には土塁が築かれた。
また外堀近くには寺院が点在していて、戦時には彦根城を防御する軍事拠点として使われる予定だったとされる。
外堀はマラリア対策として昭和20年代後半までに埋められ、土塁が現存するのは中央町のみ。
堀を埋める際に市道を除く部分に土塁が使われた。
中央町のみ残っているのは、旧外堀が近くの銭湯(山の湯)の敷地内の池として活用されたため、その場所のみ土塁が使われずに残ったという。
中央町のほか、土塁の基底部分が長曽根口や蓮華寺(中央町)裏手、圓常寺(城町)の竹薮に残っている。
中央町の土塁の大きさは、高さが城内側で5.5メートル、城外側で6メートル以上、南北の幅が23メートル、東西の幅が底辺18メートル・上部4メートルの台形型。
防御面から城内側と比べて城外側の斜面が急になっている。
2019年に廃業した山の湯
外堀城門「池州口」「中藪口」「長曽根口」「松原口」と残し終了となりました...
ずっと探しながら頑張ってみたのですが、なかなか古地図では場所がわかりずらい。
ずっと探しながら頑張ってみたのですが、なかなか古地図では場所がわかりずらい。
最後は車で周りましたが、やっぱり足で行かないと気づけない所はあります。
最後、観光船のりばに辿り着きました。
行ってみたいな竹生島。