これほど自然に殿方を受け入れることができたというのは女人として幸せであったのかもしれません。
怖じていた女は愛を知りました。
浮舟と呼ばれるようになった姫君は薫君の胸に抱かれながら眼下に宇治川を眺めております。
あの三条の狭い邸と比べて壮大な景色は小さな物思いも何処かへと押し流してくれるようで、うっとりと顔を上げると愛しい君が笑んで応えてくれるのです。そこに心細さはもうありません。
「このままあなたとここで暮らしたい。朝夕もあなたを見つめて思うままに愛しあえればどんなに幸せなことか」
「わたくしもそう願いますが、それを申し上げてははしたなく聞こえますでしょうか」
飾らずに頬を染める女君が愛しくて薫はこの女を離すことができなくなります。
「そのようなことはない」
そうして細身の浮舟を幾度も愛するのは大君と思ってこの人を抱きしめているものか、新たな愛をもってして抱いているものか、またもや迷宮に嵌まり込んだ薫であります。
しかしながら互いの存在を確かめながら愛を交わす。それはこの二人には存在を確かなものとする為に必要であったのかもしれません。
たとい高貴な姫宮を賜ろうとも薫の存在をこの世に繋ぎとめるのはこの浮舟しかありえまい。そして浮舟にとっても薫の存在があってこそ自己があるように思われるのです。
浮舟の横顔は亡き大君にそっくりでありました。
額髪の裾から覗く輪郭はふっくらと優美で匂うばかりの目元が艶やかに愛らしい。大君は気品あふれる人でしたが浮舟には可憐な華やかさが添うているのがまた魅力的なのです。
美しい色目の装束を纏っているもののどこか田舎びた感じがあるもので、この人を貴婦人たらしく磨き上げれば輝くばかりになるであろうと思われる。薫はこの愛しい人をそれに見合うよう洗練された女性にしようと考えました。
陽が暮れると久しく手も触れていなかった七弦琴や筝の琴などを御前に運ばせ、手すさびに掻き鳴らす薫の姿もくつろいで、浮舟はそれもまた魅力的な君であると頬を染めました。
「姫は東国でお育ちになったので、吾妻琴などはお弾きになったでしょうか。ぜひお手を聞きたいものだが」
「吾妻琴は大和琴とも申しますわね。せめて大和言葉で歌でもようよう詠んでおればよろしかったのですが、ましてや大和琴など弾き馴れませんの」
この機知に富んだ軽快な応酬に姫の才気を見ました。
薫は柔らかく笑むと思うままに琴を掻き鳴らしました。
哀切でありながら昔を懐かしむような優しい音色が山々に響くのを亡き父宮がそこにあるように感じて物思いに耽る浮舟は白扇を弄ぶ。
ふと薫の口から和漢朗詠集の一節がこぼれました。
「班女が閨の中の秋の扇の色、楚王の台の上の夜の琴の声」
はっとその一節を詠じたことを後悔したのは言うまでもありません。
この句は夏にはもてはやされた白扇も秋には捨てられるという寵愛を喪う女人の故事とてあまり縁起がよろしくないのです。
それでも武骨な東人たちに囲まれて育った教養も無い浮舟や侍従の君が賞賛の色を見せるのが些か悲しく感じられますが、そうした教養もこれからつけさせて貴婦人に仕上げようと気を取り直しました。
寄り添う二人を眺めて弁の尼は大君と薫君がそこにあるように思われて涙せずにはいられません。
大君とのことを知らぬ浮舟の乳姉妹・侍従の君はこのめでたい始まりの日にただでさえ尼姿の老女があるのも不吉であるというのにどうしてまた涙まで流すものか、と怪訝な顔をするのでした。
弁の尼:やどり木は色かはりぬる秋なれど
昔おぼえて澄める月かな
(御身が心を寄せたお人は大君から浮舟君へと変わりましたが、情愛の深さはかわりませぬなぁ)
薫:里の名も昔ながらに見し人の
面がわりせる閨の月影
(月影もこの里も昔と変わらぬ宇治であり、私の心も憂いて(=憂し)おりますが、閨にいる君は大君ではなく変わっているのですよ)



