【記録】
2014年4月28日。
ちょうど娘の誕生日1ヶ月前。
朝から雨雲がのぞいていて、昼前から雨が降り始めました。
傘は持たせてあるけれど、あまり激しく降るようだったら近くまでお迎えにいこう、そんなことを考えながら夜ご飯の仕込みをお昼の時間帯にしていました。
14時過ぎ、家の固定電話が鳴りました。
発信元は、娘の通う小学校。
この日が、初めての発作でした。
下校前のおかりの会の前、いつもなら自分でトイレに言ってきてもいいですか、と担任の先生に言うらしい娘は、この日は何故かお友達を通して言ってきたそうです。
「○○ちゃんがトイレにいきたいそうです」
ん?と少しだけ不思議に思った担任の先生は、娘の手をとりトイレまで一緒に行こうか、と促したのです。
娘の通う小学校は規模が大きいので、教室が足りずに1年生の校舎にはいりきらず、娘のクラスは3年生の校舎に入っています。きっとその配慮で連れていってくれたのでしょう。
トイレを目の前にして、発作はおきたようです。
「はい、どうぞ、いってらっしゃい」
と手を握ったまま、振り向くと呼びかけに反応しない娘。
左後方を向いたような姿勢で、手足に力は入っていなかった、つっぱりはなし。
目がすこしおかしかったような気がする、でも呼びかけには応答しない、
きっとこの時点で意識消失だったのだと思われます。
直ぐに抱きかかえて保健室に運んだそうです。
その時少しだけ、本当に微動の手足の痙攣が1~2分。
直ぐに救急車手配。
手配してまもなく救急車到着。 この時にはもう意識は戻っていたようです。
救急隊員の問いかけには応じ、ちゃんと自分の名前、学校の名前、学年、先生の名前を言えたとの報告がありました。
私がかけつけたのはその問いかけの後。
雨の降る中、沢山の1年生のお母さんたちがわが子のかさを持ってお迎えへときていたところで、目の前に救急車が止まっていることでざわざわとしていました。
運がいいのか悪いのか、私はこの校区では知り合いは皆無に等しく
誰にも声をかけられることなく、とにかくその救急車の方へ向かったことを覚えています。
県立病院、救急へ運ばれ、簡易の血液検査。
問診は発作をみていた担任の先生が受け答え、
私は既往歴を聞かれ、血液検査の結果、給食の直後にしては血糖値が低いけれど
今までに特別なにもなかったのなら異常を示す数値はないから経過観察でと言われ、点滴が終わったら帰宅をしていいと言われました。
きっと担任の先生が一番不安だったはず。
私は娘の最初の発作に立ち会ってないのです。
そしてこの後起こる次の発作にも私は立ち会うことなく
娘は検査で、てんかんとおもわれる、と診断が下り、
私たち夫婦は、なにもわからぬまま、内服治療を進めなければいけない不安にかられました。
これがはじめての発作。
そして、これがまだ4月下旬だったので、学校の保険がおりないということにもあとで知らされました。
でもここから、この日から全てがはじまった。
娘も、わたしも、主人も。
この日から何かと向き合うことや、これからのことを今まで以上に考えることになったのです。