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鼻 芥川 竜之介 スマホ向け現代語訳
読む前に
芥川龍之介『鼻』の全文を、現在の日本語で読みやす
く言い換えたものです。原作の筋と語り口をできるだ
け保ち、古い語句・会話・僧の役職などを平易にしま
した。見出しと段落分けは、この版で補ったものです。
長さの単位は、現代のメートル法による概数に置き換
えています。
目次
1 長い鼻の悩み
2 どうにか短くしたい
3 鼻を短くする方法
4 願いがかなったのに
5 人の心の裏側
6 秋の朝
1 長い鼻の悩み
禅智内供(ぜんちないぐ)の鼻といえば、
池の尾で知らない人はいない。長さは十
五〜十八センチほどもあり、上唇の上か
ら、あごの下まで垂れ下がっている。根
元も先も同じように太い。細長いソーセー
ジのようなものが、顔の真ん中から、ぶ
らりと下がっているのだ。
五十歳を過ぎた内供は、見習いの僧だっ
たころから、宮中の仏事を務める高い地
位についた今まで、心の中ではずっとこ
の鼻を気に病んできた。
もちろん、表向きは今でも、それほど気
にしていないような顔ですましている。
僧というものは、来世に極楽浄土へ生ま
れることを、ひたすら願うべき身なのだ
から、鼻などを心配するのはよくない。
そう思っていたからだけではない。それ
よりも、自分が鼻を気にしていることを、
人に知られるのが嫌だったのである。
内供は、ふだんの会話の中に「鼻」とい
う言葉が出てくることを、何よりも恐れ
ていた。
内供が鼻を持て余していた理由は二つあ
る。一つは、実際に鼻が長いと不便だっ
たからだ。
まず、食事さえ一人ではできない。一人
で食べようとすると、鼻の先が金属の器
に盛ったご飯に届いてしまう。そこで弟
子の一人を食膳の向かいに座らせ、食べ
ている間じゅう、幅三センチ、長さ六十
センチほどの板で鼻を持ち上げてもらう
ことにした。
しかし、こうして食事をするのは、鼻を
持ち上げる弟子にも、持ち上げてもらう
内供にも、決して楽なことではない。
あるとき、弟子の代わりをした寺の召使
いの少年が、くしゃみをした拍子に手を
震わせ、鼻をおかゆの中へ落としてしまっ
た。その話は、当時、京都にまで広まっ
た。
けれども、内供が鼻を気に病んでいた一
番の理由は、それではない。この鼻のせ
いで自尊心を傷つけられることが、何よ
りもつらかったのである。
池の尾の町の人たちは、そんな鼻をした
禅智内供について、僧であってよかった
と言った。あの鼻では、妻になろうとい
う女などいないだろうと思ったからだ。
中には、あの鼻だから出家したのだろう、
とまで言う人もいた。
しかし内供自身は、僧になったおかげで
鼻の悩みが少しでも減ったとは思ってい
なかった。結婚できるかどうかなど、具
体的な結果だけで左右されるには、内供
の自尊心はあまりにも繊細だったのであ
る。
そこで内供は、あの手この手で、傷つい
た自尊心を取り戻そうとした。
2 どうにか短くしたい
まず内供が考えたのは、この長い鼻を、
実際よりも短く見せる方法だった。
人のいないときに鏡へ向かい、さまざま
な角度から顔を映して、熱心に工夫して
みた。顔の向きを変えるだけでは納得で
きず、頬づえをついたり、あごの先に指
を当てたりして、根気よく鏡をのぞくこ
ともあった。
しかし、自分でも満足できるほど鼻が短
く見えたことは、これまで一度もない。
ときには、工夫すればするほど、かえっ
て長く見える気さえした。
そんなとき内供は、鏡を箱にしまいなが
ら、あらためてため息をつく。そして、
しぶしぶ経机へ戻り、観音経を読むので
ある。
それから内供は、いつも他人の鼻を気に
していた。
池の尾の寺では、僧たちを供養する集ま
りや、仏の教えを説く会が、たびたび開
かれていた。境内には僧の住まいが隙間
なく立ち並び、風呂場では寺の僧が毎日
湯を沸かしている。だから、出入りする
僧や一般の人も非常に多い。
内供は、そうした人たちの顔を根気よく
見て回った。一人でも自分と同じような
鼻の人を見つけ、安心したかったのであ
る。
だから内供の目には、紺色の上着も、白
い夏の着物も入らない。まして、みかん
色の僧の帽子や、灰色がかった鈍い色の
僧衣などは、見慣れているだけに、あっ
てもないようなものだった。
内供は人を見ず、ただ鼻を見ていた。
しかし、先の曲がったかぎ鼻はあっても、
内供のような鼻は一つも見つからない。
見つからないことが重なるにつれ、内供
の心は、また次第に不愉快になっていっ
た。
人と話している最中に、思わず垂れ下がっ
た鼻の先をつまみ、その年齢には似合わ
ず顔を赤らめたのも、まったく、この不
愉快さに突き動かされたためだった。
しまいには、仏教の経典や、それ以外の
書物から、自分と同じような鼻の人物を
探し出し、せめて少しでも気を慰めよう
と思ったことさえある。
けれども、釈迦の弟子の目連(もくれん)
や舎利弗(しゃりほつ)の鼻が長かった
とは、どの経典にも書かれていない。も
ちろん、仏教の高僧である竜樹(りゅう
じゅ)や馬鳴(めみょう)も、人並みの
鼻を持った菩薩である。
中国の話が出たついでに、蜀漢の劉玄徳
(りゅうげんとく)は耳が長かった、と
聞いたとき、内供は思った。それが鼻だっ
たら、自分はどんなに心強かっただろう、
と。
こうして気持ちを慰める工夫をする一方
で、内供が、実際に鼻を短くする方法も
試していたことは、わざわざ言うまでも
ない。
この点でも、できるかぎりのことをした。
カラスウリを煮出して飲んだこともある。
ネズミの尿を鼻に塗ってみたこともある。
それでも、何をどうしても、鼻は相変わ
らず十五〜十八センチほどの長さで、唇
の上からぶらりと垂れ下がっているでは
ないか。
3 鼻を短くする方法
ところが、ある年の秋のことだった。内
供の用事も兼ねて京都へ行った弟子の僧
が、知り合いの医者から、長い鼻を短く
する方法を教わってきた。
その医者は、もともと中国から渡ってき
た男で、そのころは長楽寺で仏事を務め
る僧になっていた。
内供は、いつものように鼻など気にして
いないふりをして、わざと、すぐ試して
みようとは言わなかった。その一方で、
何でもないような口調で、食事のたびに
弟子へ手間をかけるのが心苦しい、といっ
たことを口にした。
もちろん本心では、弟子のほうから自分
を説得して、この方法を試させてくれる
のを待っていたのである。
弟子にも、内供のこの思惑がわからない
はずはない。だが、それに反感を覚える
よりも、そんな手を使わずにいられない
内供の気持ちのほうが、強く同情を誘っ
たのだろう。
弟子は、内供の思ったとおり、言葉を尽
くして、この方法を試すように勧めはじ
めた。そして内供も、やはり思ったとお
り、結局はその熱心な勧めに従うことに
なった。
その方法は、ただ、お湯で鼻をゆで、そ
れを人に踏んでもらうという、きわめて
簡単なものだった。
湯は寺の風呂場で毎日沸かしている。弟
子はさっそく、指も入れられないほど熱
い湯を、取っ手つきの容器にくんできた。
ただ、じかに容器へ鼻を入れると、湯気
で顔をやけどするおそれがある。そこで、
木の盆に穴を開けて容器のふたにし、そ
の穴から鼻だけを湯の中へ入れることに
した。
不思議なことに、鼻だけは、この熱い湯
に浸しても少しも熱くないのである。
しばらくすると、弟子が言った。
「もう、ゆで上がったころでしょう」
内供は苦笑した。これだけ聞いたら、誰
も鼻の話だとは思うまい、と考えたから
だ。鼻は熱湯に蒸されて、ノミに刺され
たようにむずがゆい。
内供が盆の穴から鼻を抜くと、弟子は、
まだ湯気の立っている鼻を、両足に力を
込めて踏みはじめた。
内供は横になり、鼻を床板の上へ伸ばし
て、弟子の足が目の前で上下に動くのを
見ている。弟子はときどき、気の毒そう
に内供のはげ頭を見下ろしながら、こん
なことを言った。
「痛くはありませんか。医者は、強く踏
めと言っていましたが。それでも、痛く
はありませんか」
内供は首を振って、痛くないと伝えよう
とした。ところが鼻を踏まれているので、
思うように首が動かない。
そこで、上目づかいに弟子の足のあかぎ
れを眺めながら、腹を立てたような声で
答えた。
「痛くはないよ」
実際、むずがゆいところを踏まれるので、
痛いどころか、かえって気持ちがいいく
らいだった。
しばらく踏んでいると、やがて鼻に、粟
粒のような小さなつぶつぶができはじめ
た。いわば、羽をむしった小鳥を、その
まま丸焼きにしたような姿である。
弟子はそれを見ると、踏むのをやめ、独
り言のように言った。
「これを毛抜きで抜け、ということでし
た」
内供は不満そうに頬をふくらませ、黙っ
て弟子に任せていた。
弟子の親切がわからないわけではない。
それはわかっていても、自分の鼻を、ま
るで品物のように扱われるのが不愉快だっ
たのである。
内供は、信用できない医者の手術を受け
る患者のような顔で、弟子が鼻の毛穴か
ら毛抜きで脂を取り出すのを、しぶしぶ
眺めていた。
脂は鳥の羽の軸のような形で、一センチ
二ミリほどの長さになって抜けてくる。
やがて一通り終わると、弟子は、ほっと
一息ついたような顔で言った。
「もう一度、これをゆでればいいのです」
内供は相変わらず眉を八の字に寄せ、不
服そうな顔で、弟子の言うとおりにして
いた。
4 願いがかなったのに
さて、二度目にゆでた鼻を取り出してみ
ると、なるほど、これまでになく短くなっ
ている。これなら、普通のかぎ鼻と大し
て変わらない。
内供は短くなった鼻をなでながら、弟子
が差し出した鏡を、照れくさそうに、お
ずおずとのぞき込んだ。
鼻は、あの、あごの下まで垂れ下がって
いた鼻は、うそのように縮んでいる。今
では上唇のすぐ上に、弱々しく、かろう
じて命をつないでいるような姿で残って
いるだけだ。
ところどころ、まだらに赤くなっている
のは、きっと踏まれた跡だろう。
これなら、もう誰も笑う者はいないに違
いない。
鏡の中の内供の顔は、鏡の外の内供の顔
を見て、満足そうにまばたきをした。
しかし、その日はまだ一日じゅう、鼻が
また長くなりはしないかと不安だった。
お経を読むときも、食事をするときも、
暇さえあれば手を伸ばし、そっと鼻の先
に触れてみた。
だが鼻は、おとなしく唇の上に収まって
いるだけで、それより下へ垂れてくる気
配はない。
一晩寝て、翌朝早く目を覚ますと、内供
は何より先に、自分の鼻をなでてみた。
鼻は、やはり短いままだった。
そこで内供は、何年も味わったことのな
い、のびのびした気分になった。法華経
を書き写し、功徳を積んだときのような
気持ちだった。
ところが、二、三日たつうちに、内供は
思いがけない事実に気づいた。
用事で池の尾の寺を訪れた侍が、前より
もいっそうおかしそうな顔をして、ろく
に話もせず、じろじろと内供の鼻ばかり
見ていたのである。
それだけではない。以前、内供の鼻をお
かゆに落としたあの少年も、講堂の外で
すれ違ったとき、初めは下を向いて笑い
をこらえていた。だが、とうとう我慢で
きなくなったらしく、急にぷっと吹き出
してしまった。
用事を言いつけられた身分の低い僧たち
も、向かい合っている間は、かしこまっ
て聞いている。それなのに、内供が後ろ
を向くと、すぐにくすくす笑いだす。一
度や二度のことではなかった。
内供は初め、自分の顔つきが変わったせ
いだと考えた。しかし、それだけでは、
どうも説明しきれない。
もちろん、少年や僧たちが笑うきっかけ
は、そこにあるのだろう。けれども、同
じ笑うにしても、鼻が長かったころとは、
どこか様子が違う。
見慣れた長い鼻より、見慣れない短い鼻
のほうがおかしく見える。それだけだと
言えば、それまでである。だが、そこに
は、まだ何かあるらしい。
「前は、あんなにあからさまには笑わな
かったのだがな」
内供は読みかけのお経をやめ、はげ頭を
傾けながら、ときどきこうつぶやいた。
この憎めない内供は、そんなとき、決まっ
てそばに掛けてある普賢菩薩の絵をぼん
やり眺め、鼻が長かった四、五日前のこ
とを思い出した。
そして、今はひどく落ちぶれた人が、栄
えていた昔を懐かしむように、ふさぎ込
んでしまうのだった。
残念ながら内供には、この疑問の答えを
見抜く力がなかった。
5 人の心の裏側
人間の心には、互いに矛盾する二つの感
情がある。
もちろん、他人の不幸に同情しない人は
いない。ところが、その人がどうにかし
て不幸を切り抜けると、今度は、こちら
が何となく物足りなくなる。
少し大げさに言えば、もう一度、その人
を同じ不幸に陥れてみたい気にさえなる。
そして、いつの間にか、自分から何かす
るほどではないにしても、その人に対し
て、ある種の敵意を抱くようになる。
内供は、その理由をはっきり理解してい
なかった。それでも何となく不快だった
のは、池の尾の僧や町の人たちの態度に、
他人の身に起きることを外から眺める者
の身勝手さを、うすうす感じ取っていた
からにほかならない。
こうして内供は、日ごとに機嫌が悪くなっ
た。口を開けば、誰にでも意地悪く叱り
つける。
しまいには、鼻を治してくれたあの弟子
まで、陰で、「内供様は、仏の教えを出
し惜しみするような、けちで欲深い心の
せいで、罪の報いを受けられるぞ」と言
うほどになった。
とりわけ内供を怒らせたのは、あのいた
ずら好きの少年だった。
ある日、犬がけたたましくほえるので、
内供が何気なく外へ出ると、少年が六十
センチほどの木の棒を振り回し、毛の長
い、やせた犬を追い回していた。
ただ追い回しているのではない。
「鼻をぶたれないようにしろ。ほら、鼻
をぶたれないようにしろ」
そんなふうにはやし立てながら、追い回
しているのである。
内供は少年の手から棒をひったくり、そ
の顔を強く打った。その棒は、以前、内
供の鼻を持ち上げるために使っていた板
だった。
内供は、下手に鼻が短くなったことを、
かえって恨めしく思うようになった。
6 秋の朝
そんな、ある夜のことだった。
日が暮れてから急に風が出たらしく、塔
の軒につるされた鈴の音が、うるさいほ
ど枕元まで響いてきた。そのうえ寒さも
一段と増し、年を取った内供は、眠ろう
としても眠れない。
寝床で目をさましていると、ふと、鼻が
いつになくむずがゆいことに気づいた。
手を当てると、水がたまったように少し
むくんでいる。どうやら、そこだけ熱ま
で持っているらしい。
「無理に短くしたので、病気になったの
かもしれない」
内供は、仏前に香や花を供えるときのよ
うな、うやうやしい手つきで鼻を押さえ
ながら、そうつぶやいた。
翌朝、いつものように早く目を覚ますと、
寺のイチョウやトチの木が一晩のうちに
葉を落とし、庭は黄金を敷き詰めたよう
に明るかった。
塔の屋根には霜が降りているのだろう。
まだ弱い朝日に照らされて、塔の頂にあ
る九つの輪の飾りが、まばゆく光ってい
る。
禅智内供は、木の戸を上げた縁側に立ち、
深く息を吸い込んだ。
忘れかけていた、ある感覚が戻ってきた
のは、このときだった。
内供は、慌てて鼻に手をやった。
手に触れるのは、昨夜の短い鼻ではない。
上唇の上からあごの下まで、十五〜十八
センチあまりも垂れ下がる、昔の長い鼻
だった。
内供は、鼻が一晩で元どおり長くなった
のだと知った。そして同時に、鼻が短く
なったときと同じような、晴れ晴れとし
た気持ちが、どこからともなく戻ってく
るのを感じた。
これなら、もう誰も笑う者はいないに違
いない。
内供は心の中で、そう自分にささやいた。
長い鼻を、明け方の秋風にぶらつかせな
がら。
出典と編集について
原作:芥川龍之介『鼻』
原作末尾の日付:大正五年一月(1916年1月)
初出:『新思潮』1916年2月
出典:青空文庫
底本:『芥川龍之介全集1』ちくま文庫、筑摩書房
青空文庫の入力:平山誠、野口英司/校正:もりみつ
じゅんじ
